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剣劇

2014-02-14

新国劇を創立した沢田正二郎は、従来に見られなかった写実的な殺陣をみせて評判となったが、そのくせ観客や批評家から「沢正」とか「剣戟」とかいわれることを非常に嫌った。彼の迫真的な立回りを見て熱狂した観客が「剣戟の神様ァ」とか「イョウ沢正!日本一」とかいったような掛け声を飛ばす。沢田は楽屋ヘ入って来るなり苦虫を噛みつぶしたような顔で「駄目だ。まだ客は俺の立回りばかり見て芝居の方は見てくれていない。」そして側の金弁護之助に向って「金井君、今夜ハネてから稽古のやり直しをしよう。」といったという。その沢田の唱えた「半歩前進主義」は、大衆と握手することは必要だが、それは大衆におもねることではなくして、大衆とともに進み、常に大衆をその水準から引上げようという意気を示したものであることは周知の事実だが、そのような意味で「剣戟」とよばれることや思惑遠いの人気に抵抗を感じたであろうことは想像するまでもない。剣劇は、この新国劇の立回りの魅力のみを素材として出発したものであるから、いわば当初から観衆におもねる意識があったともいえる。
ともかく剣劇の最初の人材は新劇から出た。すなわち、大正八年の十一月に名古屋末広座で、行友李風の「固定忠治」を上演中、中田正造・小川隆・伊川八郎・小笠原茂夫ら幹部役者の発起による一座分裂の企てが露見、四名の自責脱退となった。退座した中田らは間もなく「新声劇」なる剣劇団を組織、主として京阪神一帯で活動を始め、また屡々上京もした。この新声劇が道頓堀の角座ヘかかったとき、折しも中座に出演中の先代脈雁治郎が評判を聞いてコッソリ見物に来たという。

新声劇からは後に伊川と小川が抜けて別に一座を作った。この伊川らの「国精劇」は特に関西方面で新声劇と張合っていた。そのほか明石潮・酒井淳之助・山口俊雄・辻野良一・河部五郎といった面々もこの新声劇の出身である。山口は井上正夫門下より新声劇ヘ参じたものだが、のち役の上から中田とケンカになり、別に新潮座を旗揚げした。
震災後の新国劇からは、さらに金弁護之助・田中介二らが脱退、新派の加藤精一・佐々木積・林幹・岡田嘉子・夏川静枝らの舞台協会と結んで、大正十三年に同志座を創立したが永続きしなかった。
果せるかな剣劇は各地に絶大な反響をよぴ、殊に大震災後になるといろいろな剣劇団が簇生した。大正十四年から翌十五年にかけては剣劇全盛期とも称すべきで、主として浅草六区を中心として隆盛その極に達した。
十四年の浅草では先ず明石潮が観音劇場で立回りを始め、伊川と別れた小川隆が常盤座に打って出、また「遠山満とその一党」に続いて、これまた新声劇から出た酒井淳之助が元新派の柴田善太郎と「剣劇文芸団」を旗揚げして公閣劇場に拠る――という慌しい剣劇攻勢を迎えた。それまで「浅草の猛将」といわれた沢村約子、公闘随一の人気者だった伝次郎、さては民衆劇を志して「春秋座」を興した猿之助・八百蔵兄弟といった面々もこの剣劇プームには抗し難く、いずれもお手あげの有様だった。
その他の主な剣劇団としては剣星劇・日吉良太郎一座・新光劇聯盟・伊村義雄一座・筒井徳二郎一路・第二新国劇・鈴声劇・近江二郎一座などがあったが、いずれも離合集散、提携袂別がはなはだしかった。

大正十五年正月の浅草における各剣劇団公演の模様を見るに、

観音劇場――小川隆・田中介二提携のもとに新組織した「純国劇一派」。田中とともに新国劇を脱退した二条昌子、新派や喜劇にもいた音地竹子・藤田キン子・以前から小川一派の幹部だった久保春二、喜劇出身の樋口十兵衛などが共演。出し物は「め組の喧嘩」、「好漢近藤勇」などで、序でながら木戸銭は庫席一円、立見が五十銭だった。
凌雲座――「剣星劇」。”東西新劇界の若手花形を網羅せる日本随一の大剣劇”と銘打ち、新派から瀬戸日出夫・小栗武雄・元安盤、新声劇や国精劇の落武者に加えて元新国劇の大山秦、喜劇春秋座から田村稔らが出演している。出し物は「薩英戦争実記」、「兵児の歌」など。
千歳座――「日吉良太郎一座」で「軍神乃木将軍」、「侠斗の乱刃」など。

なおこのとき、神田劇場では遠山満とその一党が幕末史劇「反逆時代」、風刺劇「牛を尋ねる男」、剣侠劇「清水次郎長」をやり、麻布末広座では明石潮の「国純劇」、水野好美が「新光劇聯盟」をひきいてやはりチャンパラを見せている。が、間もなく遠山一党は公園劇場ヘ、明石は常椴座へと来るに及んで、この年の浅草は金竜館の「喜劇春秋座」、江川大盛館の安定筋、そして世界館の五一郎一座を除けば、どこも剣劇一色に塗りつぶされるという有様だった。終戦後一時浅草にストリップの全盛期があったが、この震災復興後の剣劇プームと全く似たようなケースだった。やがて昭和に入るとさしもの剣劇も下火になり、群小劇団は淘汰されて消え去ったが、この最流行期から-寸遅れて出発し、そして確実な人気をかち得たのが梅沢昇と金井修である。

ところで「剣劇」なる用語の由来については次のような説がある。

「大体剣劇という一言葉が出来たのは大正末期で、浅草の常盤座で明石・問中・小川の三店合同したときに、太夫一応の木内末吉が『剣劇三派合同』と林したのが最初だろう。」(保氏浅之助「女剣劇」”よみうり演芸館”夕刊読売新聞・昭和三十三年一月二十一日)
また徳田純宏氏の記事によれば、浅草で全盛時代の田中介二らが客を惹くため二、三の人と作った名称であるという田中自身の弁による説、それから嘗て岩本某なるペンネームをもって浅草の興行師堀倉吉の下で文芸部員として務め、後に日本特殊鉛工業の常務となった糸川東洋男氏が当時小川隆らとともにやはり客寄せのため立回りの芝居に剣劇団と名付けたという説、いま一つは徳出氏自身の説で、大阪の弁天座あたりで、ある宣伝部員がキャッチフレーズに「剣戟の響き」と書くのを誤って「剣劇」と書いたのがはからずも受けて、以後「剣劇」なる名称が使われるようになったというものである。〈「剣劇まんだん」「演劇界」昭和二十九年四月号〉

※筆者の所有している大正十四年十一月興行の観音劇場パンフレットには「明石・問中・小川剣劇三派合同第一回興行」と書いである。もっともこの「第一回」は「剣劇」の第一回という意味ではない。同年の「演芸画報」の記事などから察するに「剣劇」なる用語の出来たのは新国劇から金井(謹)と田中が脱退した後、すなわち大正十三年から十四年までの問のことと思われる。

ところでこのような剣劇降盛に関して次のような記事があるから紹介しておこう。高沢初風「剣劇めぐり」(「演芸嗣報」・大正十五年二月号)に出てくる一老歌舞伎俳優‐氏名は明らかにしていない‐の談である。
「恐ろしい世の中になったもんですな。あっしどもの若い時分には、役者が舞台で立回りの刀を受け損じて怪我をしたとか、花道から客席ヘ転げ落ちたとかしたら、これは役者の恥だといって翌日から仲間に顔向けも出来ず、芝居を休んだものです。それがどうでせう、この頃の何とか団とか何とか劇とかいふものは怪我をしたり転げ落ちたりするのを恥ではなく熱心の余りの名誉だといっています。どうも時世とは申しながら恐ろしいもんですな。(略)私も商売のことですから一度は見ておかなければとそっと覗いて歩きましたがどうも驚きましたな、いやにシャチょこばってサア来いウムと抜身を一振りすると、丸でスルメを焼いたように体をそらしてパタパタと倒れるのです。それが僅か三分の間に二十何人といふ相手を一人で殺したのですから驚かずにはいられません。(略)それから次の幕になると、浪士たちが寄合って、何か相談をしているところですが、これがまたどれを見ても肩肘をいゃに怒らしてときどき妙な稔り声を出すのです。てんで芸といふものではありませんな。」

この言葉の中には新興の強敵に対する憎悪と嫉妬以外の何物をも認められない。あたかも源氏の田舎侍に対する平家の落武者を感じさせるものがある。かと思えば一方、例えば大正十五年の公園劇場における遠山満に対して政界の頭山満から「雄剣光如氷」と大書した引幕が贈られ、またこれと合同していた近江二郎・酒井淳之助には菊五郎・吉右衛門からそれぞれ大入り袋を贈らるといった情景も見られた。
かように剣劇は伝統ある歌舞伎まで圧倒するにいたったが、この剣劇降盛によって最も被害蒙ったのは地方回りの新派だったといわれる。

梅沢昇は九州の出身だが、幼いときから自活して苦労の絶え間がなく、ドサ回りを振り出しに孜々営々の幾年をおくつた。昭和十六年、浅草の公園劇場で「ご本万土俵入り」(長谷川伸作)をやったとき、茂兵衛に扮した梅沢が演ずる空きっ腹の場面が真に迫っていたのも、十三才のとき三日も食わずにいた苦労、その体験を生かしたものだった。

東上して浅草の昭和座へ出たのは昭和六月である。比較的早く人気を得た彼は「狼之助口手拭」・「月夜野大八」・「月の素浪人」など、長谷川仲から書下しの本をもらって公園、俗に梅沢芝居と呼ばれた確実な演技とあいまって、その人気を不動のものにした。原厳・村上元三といった面々が文芸部にいた。金子洋文の書下しや、また、北条秀司・北村喜八の現代物なども手がけている。
梅沢は元米が怒声で(二代日も同様)柄も余り良くなく、舞台人としては得なガとはいえなかったが、それを脚本で埋め合せをしたようなところがあった。その甲斐あって、一部の人からは芝居がクサイといわれながらも、忽ちにスターの座へのし上ったが、好事魔多しで一座の中に待遇改善の動きが高まり、それがもとで数人の脱退者を出し、以後次第に衰えを見せ始めた。その後梅沢は一座の河井勇二郎に二代目を襲名させ、自らは竜峯と名乗った。昭和十九年のことである。終戦後は余りパッとした動きは見せず、昭和二七年頃に浅草の花月劇場で「伊那の勘太郎疾風道中」など演じたのを筆者は見たが、その後花月は映画館になり、梅沢も東京から姿を消した。都落ちした梅沢は横浜の弘明寺町に梅沢劇場を建てて奮戦したが遂に時勢波には勝てず、三十一年の二月長谷川伸の「勘太郎月の唄」を最後の舞台として一座を解散した。

金井修は初め神戸の三の宮の歌舞伎座から新開地の港座あたりで一座をなしていたが、梅沢より丁度二年ほど遅れて上京、昭和座ヘ出た。その後本所の寿座などを経て昭和一三年あたりから公園劇場ヘ出るようになったが梅沢よりももっと覇気のある殺陣がそノをいって戦争前の一時期を飾った。十四年頃には大江美智子〈現二代目〉と剣劇団としては始めて国際劇場の舞台に上り合同公演を行った。十三年頃から、戦争が激しくなる前の十七・八年あたりまで、松竹販の不二洋子に公園劇場の金井と互に蹴酬を競っていたがこの頃が最も充実した時期であったといえる。十八年に不二が他所ヘ行った隙に松竹座ヘ進出、三門博を使って「唄入り観音経」を演じ、好評を博した。大東亜戦争が激しくなりやがて終戦を迎えるとともに占領軍からの弾圧で剣劇はご法度となった。二十一年の二月に常盤座ヘ出たときは「刀を捨てた」という意味で「剣を越えて」(小沢不二夫作)なる現代劇を上演したがこの頃からあらためて現代劇への転向を図った。もっとも戦争前からすでに彼は現代物を随分手掛けていた。そのころの座付作者には鳥栄光がいて「唖の剣法」などの傑作を書いたが、そのほか子母沢寛や佐々木憲の作品も多くやっている。戦後は一時花月劇場などへも出演したが、花月が映画館に転じたため、やはり梅沢同様に浅草を追われることとなった。

一座解散後はしばらく脾肉の嘆をかこっていた金井も、最近ではテレビに活路を見出すようになり、かなり忙しい毎日を送っている。やはり年期というものだろうか、一向に衰えを見せない剣の冴えは流石である。

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