Archive for the ‘西欧的モダニズムの移入’ Category
レビュー、ショー時代来たる‐松竹楽劇団
昭和十三年、帝劇を本拠に、松竹洋画系専門のアトラクション団として「松竹楽劇団」が旗揚げされた。これは日劇を初めとする東宝の丸の内攻勢と当時各映画館で流行したアトラクションに対応して、松竹の大谷博や蒲生重右衛門が立役となって作られたもので、東宝SSKから天草みどり・春野八重子・荒川乙女ら、OSKから小月秋月、それに中川三郎・荒木陽・リズム・ボーイズなどが参加した。ここで新たに編成された男女混声コーラスは、宝塚や松竹の歌劇団では見られなかったものだ。楽長は紙恭輔で、その助手として服部良一が編曲兼代理指揮者を受持っていた。紙は同年の九月に楽劇団を詳したが、この紙に稽古のあといつまでも残っていろいろなことを根掘り葉掘り訊いたり、オーケストラの練習をしていると、すぐ後に立って紙の動きを真似したりしてうるさがられた娘がいた。これが笠置シヅ子(当時三笠静子〉で、紙が服部と斎藤広義に後を任せて辞めたのち、その服部と組んで「ラッパと娘」、「センチメンタル・ダイナ」などを歌って売出した。このコンビも戦後の「東京プギ」、「へイヘイプギ」まで至っているのだから思えば長いものだ。
楽劇団の第一回公演は四月二十八日で、その後宮川はるみ・石上都・長門美千代が新たに迎えられ、またベテイ稲田なども出演した。また最初は次郎冠者の益田定信が脚本演出のみでなく、衣裳・装置までも相当していたが、第六回あたりからスタッフに大分の変更を見た。構成脚色に南部圭之助、振付に青山圭男、衣裳・装置に伊藤竜男・井部岐四郎がそれぞれ入った。しかしそのころにはすでに次郎冠者によって楽劇団の色調、スタイルといったものが一応確立されていた。昭和十三年といえば軍国絢がはなやかになってきたころで、レピュウに対する加弾圧もそろそろ始まってきていたが、それを知ってか知らずか敵性のカナ文字タイトルを常に使った。「ら・ぼんば」、「スイート・ライフ」、「トーキー・アルバム」といったカナ書きの出し物は
この劇団の一つの特徴だった。しかしやはり時勢には勝てず 「南国の情熱の踊り」のあとで「愛国行進曲」を唄ってチョッピリ「時局を認識した」ところを見せたりした。
九月には大町竜夫が新たに入団、文芸陣を強化した。大町の入団第一作は翌十四年二月十六日初日の「シンギング・ファミリー」で、これにはミミー宵嶋が特別出演した。
この楽劇団の特色は、スイングものを主体としたミュージック・ショウにあり、それには服部良一のホット・ミュージックに対する情熱と、それを日本人離れのしたフィーリングで表現した、笠置シヅ子のカが大きくものをいっていた。
こういった特色は無論服部が音楽担当者として実権を握るようになってから次第に表われてきたもので、アメリカものの新曲をフンダンに演奏すると同時に服部自身のオリジナルをも数多く発表、また十四年の四月二十七日より公演の「カレッジ・スイング」(大町竜夫作〉あたりからサックス、バイオリンなどを増加して楽団の充実をはかったりした。
つづいて服部は五月十一日から一週間、新編成によるバンドに符川はるみ・手塚久子の歌手を加えて「松竹スイング丸処女航海」一景を浅草大勝館で公演、ジャズファンに多大の期待を抱かせたが、次で六月八日から一件び情劇ヘ出て大町竜夫の「ホット・ジャズ」五景を上演した。歌手陣としては春野八重子・リズムボーイズのほかに荒川乙女・雲井みね子・志摩佐代子・波多喜美子の四人で編成したヤンチャ・ガiルズ、それに十四年の三月から、前記の手塚久子〈東日音楽コンクール首位入賞〉、イタリーのオペラを研究したテナー湯山光三郎が加入したが、やはり何といってもピカ一は笠置で、この「ホット・ジャズ」で唄った「ホエア・ザ・レジイ・リバー・ゴーズ・パイ」などは当時わが国でも十人余りの人によって唄われたものだが、フィーリングのみにおいても断然他の追従を許さなかった。
つづいて六月十五日からの「ジャズ・スタア」(大町竜夫演出)ではさらに趣向を変えて大きな舞台を組み、そこにバンドを一杯に飾り、このバンドを中心に歌や踊りを配するといった構成法をとった。しかしこれもやはり笠置の一人舞台で、最初の「アレキサンダース・ラグタイム・パンド」からフィナーレの「スイング・スイング・スイング」に至るまで全十二曲のうち四曲を唄いまくった。
楽劇団側としては、ヤンチャガールズの売出しを狙っていたのだが、芸が未完成なのに加えて振付けの不味さなどがたたり、客受けはあまり良くなかった。
結局、松竹楽劇団の最大の欠陥は人材の不足にあったといえるが、しかし服部がここの舞台を根城に作家の大町や歌手の笠置の力を得てジャズのステージ化に尽した功績は大きい。十五年に帝劇が東宝の経営に移るや、楽劇団は丸の内松竹(後のピカデリー)に移動したが笠十六年に解消した。
レビュー、ショー時代来たる‐宝塚
明治中期までの宝塚一帯は名もない、さびれた小村に過ぎず、明治二十五年に武庫川岸の鉱泉をひいて旧温泉が造れたが、阪鶴鉄道(現福池山線)と箕面有馬電鉄(現阪急)の開通により漸く発展の兆を見せ始めた。箕面有馬電鉄はさらに乗客の増加をはかるため小林一三の発案で遊覧地を造ることを計画、武庫川東岸の埋立地を買取り、近代的な大理石造りの温泉大浴場と家族組泉を新設、宝塚新温泉と名付けて明示四十四年五月一日開場した。しかしこの日本最初の温泉室内プールは男女混浴の不許可などで失敗、湯を抜いてしまった。そこでこの大きな水泳場を利用して余興場にすることにし、その頃大阪三越でやっていた少年音楽隊(オペラの田谷カ三もこの少年品目栄隊の出身である。)にヒントを得て宝嫁唄歌隊なるのもができた。これが大正二年の七月で、高峰妙子・雄鳥艶来・外山咲子・由良道子ら十五名が採用されて発足した。その内、唄歌を唄うだけでなく、帝劇でやっている歌劇と似たようなものをやろうという話が起こり、滝川末子ら第二期生を加え、唄歌隊の名称を廃し、宝塚少女歌劇養成所と改称、基本的な演技を全般に渡って学ぶことになった。九ヵ月の養成を済ませた彼女等は、室内プールに板を張って客席とし、脱衣場を舞台に改造した「パラダイス劇場」において第一回公演を行った。出しものは、北村季晴作・歌劇「ドンプラコ」、本店長世作・喜歌劇「浮れ達磨」、宝塚少女歌劇団作ダンス「胡蝶の舞」の三本立てであった。このように、最初はいわば浴客を対象としたアトラクション的存在であったが、大正三年の十二月に初めて北浜帝国座ヘ大阪毎日新聞社主催の慈善歌劇会に出演したのを皮切りに、道頓堀・浪花座、神戸・聚楽館等ヘしばしば出張公演するに及んだ。東京での初舞台は大正七年五月(帝劇)で、出し物は「雛まつり」、「三人猟師」、「ゴザムの市民」などであったが、これが予期以上の好評で、当時いささか不調気味だった帝劇の舞台(新劇・歌劇)に新風を吹き入れた。
その後公演毎に次第に観客の増加を見たので、新たに新歌劇場を設立、また生従たちも月組・花組に分れて公演したが、大正十三年七月、かねて小林一三の念願であった宝塚大劇場が竣工するに及んでさらに雪組が加わった。因みに星組は昭和八年の七月に発足している。
いわゆる「男装の麗人」に人気の集まり出したのは大正末期からで、その頃のスターとしては篠原浅茅・春日花子・奈良美也子などがいた。当時男役はいかなる場面でも必らずといっていいほど鳥打惰を被っていたが、これは長い髪をかくすためのもので、当時はまだ断髪など流行らなかった時代だから、男役といっても毛を短かくするわけにはいかなかったのである。因みに、レビューの男役が髪を短かくしたのは松竹の方が早く、水の江滝子が昭和五年に断髪にしている。
宝塚が、いわゆる「レビュー」の形態を本格的なものにしたのは「モン・パリ」であった。ひとり宝塚のみでなく日本のレビューはこの「モン・パリ」によって一つの典型を与えられたのである。これは教師の岸田辰弥が欧米旅行より帰朝したお土産興行として昭和二年の九月に上演したもので、「レビュー」という言葉が初めて使われたのもこのときであった。この「モン・パリ」は未曾有の大成功を収め、二ヵ月という宝塚最初の長期公演の記録を作ったが、その後「ハレムの宮殿」、「シンデレラ」等のレビューを上演、さらに五月八日にはこれまた欧米巡学より帰朝した白井鉄造の「パリゼット」を発表した。これは全十八景、白井帰朝以来の傑作とうたわれたもので、さらにこれを少し改訂した「ネオ・パリゼット」というのもある。この外白井の代表的な作品として「花詩集」、「トウランドット姫」などがあげられるだろう。
大正十二年の関東大震災によって東京公演は瞥らく中止されていたが、十四年からは再び進出をはじめ、市村座・邦楽座・歌舞伎座・新橋演舞場などで年三回ほどの公演を行っていた。しかし本格的な東京進出を目論んだ小林一三は、昭和九年の一月に東京宝塚劇場を落成させ、以後十九年三月の高級享楽停止令による閉鎖までレビューを上演した。この頃までの作者としては前記の外に久松一声・中西武夫・東郷静男・宇津秀男・堀正旗・岡田忠吉・東信一・加藤忠松・高木四郎などが活躍した。昭和九年七月の中西武夫作「憂愁夫人」など従来の宝塚調にドラマ性を与えたという意味で注目される。
昭和二十一年に再開した宝塚は間もなく戦前の華やかさを取戻したが、新開拓といったものはあまり見られなかった。しかしそれまで白井・岸田を初め、前記のようないわば座付作家のもののみを手掛けていたのが、「新風を入れるため」外部の作家のものをも公演することになった。二十七年三月の菊田一夫「猿飛佐助」の他「ジャワの踊り子」、「ひめゆりの塔」、執行正俊「ホフマン物語」、「ヤマサローサ」、侮田晴夫「巴虫の騎士」等がそれである。
月・雪・花・星の四組はそれぞれ特徴があるとされている。すなわち月組は踊りに強くて男役スターが育ちやすく、花組は歌がよく、美人が多い。雪組は演技派、また星組は若々しく健康的なところが魅力という。
益田太郎冠者と帝劇喜劇
「今日は帝劇、明日は三越……」のたとえ文句にもあるごとく、今でこそ「大衆」が出入りしている帝国劇場やデパートも、昔は上流階級の独点場だった。その帝劇は明治十四年、三月四日に開場したが、そこで上演された益田太郎冠者の音楽喜劇は、新味あるものとして異彩を放った。ブルジョア階級を相手に出したものをこの本で紹介するのは少々妙な感がしないでもないが、後の浅草オペラや昭和の軽演劇、あるいはミュージカル等にその手法は少なからず承継されていると考えるので、あえて触れることにした。
太郎冠者は本名太郎、明治八年男爵益田考の長男として生まれ、慶応義塾卒業後実業界に入り、大正九年現在、 台湾製糖・南国産業の業務を始め、台湾肥料・千代田火災、大日本人造肥料、万年生命の各取締役、日本煉瓦・氷妻硫黃、小田原紡績の各監査役を兼ね務めていた。勿論帝国の重液でもあった。そのかたわら多くの作品を書いていたということは、やはり稀にみる才人とい
わねばならない。大正九年までに帝劇で上演された彼の喜劇は次の通りである。
明示四十四年五月「ふた商」九月「心機一転」
四十五年五月「渡辺」六月「出来ない相談」七月「三太郎」
大正二年五月「生器襲来」十一月「女天下」
三年一月「かねに恨」七月「瓜二つ」十月「叫旅行」
四年五月「女優風情」イ一月「執心の鬼」
五年七月「三つの心」
六年五月「ドッチャダンネ」
七年五月「附の世の中」
八年一月「難病デレテリア」
九年二月「ガラカテ」
これらのファースでは、当時には珍らしい西洋的なハイカラなギャグや洋楽による劇中歌が使われており、優れた社会調刺も少なからず盛られている。これらの新作喜劇を演じたのは帝劇専属俳優の六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、七代目沢村宗十郎・初代沢村宗之助、四代目尾上松助(以上幹部〉、六代田沢村長十郎・八代目納子・森律子・村田嘉久子・初瀬浪子・河村菊枝らであった。森を初めとする専属女優たちは一つの名物となり、いわゆる「女優劇」は帝劇の重要な興行品目の一つであった。
明治問十内年六月号の演芸画報に鳥居清忠が批評を書いている。
「ふた面。作意が益問さん式で擦りの多いのには閉口、髪の抜けるのや軍人の未亡人の抜刀騒ぎはあらずもがなと思ひました。(略)これは当人の罪でなく、作意の放でせう。」
このような批判は終始彼の作品に付きまとっていたらしく、「帝劇十年史」にも次のことき弁解じみた記事が見える。
「或は氏を眨して曰く「畢竟落語めきたる茶番狂言の作品のみ」と。由来他人の長を認むるに吝かなるは邦人の通弊也。借問す、現代日本に氏以上の喜劇作者ありやと。而して近来氏が悲劇物に指を染めたるは人の知る所の如し。沙翁の言ヘるが如し、”完全なる悲劇作家は先づ喜劇に立脚せよるべからず”とせば、益田氏の今後の作品は大いに刑目すべし。」
彼はまた新作落語の作者としても知られているが、この落語趣味が彼の作品を貫いていたことはいうまでもない。しかし同時に、その特色あるモダニズムも見逃してはならないと思う。
彼の作品は、明治・大正・昭和の三代にわたって主として帝劇で上演されているが(帝劇以外では麻布南座など)、喜劇ばかりでなくメロドラマ・悲劇・探偵劇・古典劇・社会劇などと銘打った作品も多い。また「高速度喜劇」と称する寸劇も書いている。そしてこの場合は特にセレリタスというペンネームを用いている。
大正十五には「芝居と実地」(高助・宏之助・浪子)、「大正の幽霊」(田之助・律子)、「列車の怪」(高助・宗十郎・勝代)等の高速度喜劇を上演したが、これに先立ち、高速度喜劇にふさわしく、律子を使って早口の口上〈六六五文字を五十秒以内に読む)を云わせているのも面白い。
一例として、昭和二年に上演した短篇喜劇「支那限鋭」〈寿美蔵・浪子・律子〉の梗概を紹介しておこう。
場所はロンドンの一家庭。人物は金持の夫婦と一人の女中で、この家に、掛ければ相手のかくしごとがたちどころに透視出来るというシナ渡米の魔法の眼鏡が登場する。折しも女中がこの眼鏡によって夫婦のそれぞれから、つまみ喰いや男と逢引きしたことなどを見付けられてグビを宣告されるが、逆に女中がこの眼鏡をかけると夫婦のそれぞれが浮気をしていることがわかる。そこで女中は二人から口問め料を貰い、クピもつながってメデタシメデタシとなる。――
「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という「コロッケの歌」は大正三年講演の「啞の旅行」の主題歌だが、これが後の浅草オペラヘ流れていったのを初めとして、モダンなギャグの数々が昭和におけるアチャラカ軽演劇の大きな要素となっている。現画壇の重鎮益田義信氏が彼の御曹子であることは知る人も多いだろう。
退座していったので次第に衰退、その中にあって僅かに谷崎歳子(江利チエミの母親)が孤軍奮闘していた。
田谷力三の当時の人気といえばそれは物凄いばかりで、東京中の女宇生が彼のブロマイドを教科書に挟んでいたといわれるくらいである。田谷は戦後の今日でもときどきラジオやテレビなどに出演したり、浅草あたりのキャバレーで唄ったりしているが、いまなおカクシャクとした美声で人々を驚かせている。
このほか田谷に限らずオペラのスターにはそれぞれ熱狂的なファンがいて、ひいきの役者が出てくると客席からの掛戸と拍手で館内は割れんばかりだった。こういう熱心なファンをぺラゴロと称したが、これはオペラのごろつきという意味ではなく、オペラのペラとフランス語のジゴロ‐gigoloを合わせたものだ。もっともジゴロという言葉も「売春婦のヒモ」という意味であるから、決していい呼び名ではないのである。が、それはともかくとして、この一世を風靡した浅草オペラも、やがて大正九年の株式大暴落による不況、統いて十二年の関東大震災による影響などで急激に凋落していった。
これらのオペラは結局、唄や踊りなどを通じて洋楽や西欧劇を消化するに極めて大きな役割を果した。この浅草オペラの経験をもった人々がやがて昭和における新感覚のレビュー式喜劇を開拓していったのは当然の理である。