Archive for the ‘喜劇を大衆化した曽我廼家五九郎’ Category
五九郎以前の日本喜劇
わが国の伝統的な演劇といえば歌舞伎であるが、明治から大正へかけて新しい演劇、すなわち新派・新国劇・曾我廼家劇が生れるに至った。
曾我廼家喜劇の創立者はいうもでもなぐ曾我廼家五郎・十郎の両人である。それまで巷間の一演芸に過ぎなかった大阪俄〈仁輸加)は、「喜劇」という名称を与えられ一大プームを作り上げた。わが国で「喜劇」という言葉を最狭義に用いれば(殊に関西では)それは曾我廼家系統の芝居を指す。無論、五郎・十郎がその旗揚げに際して初めて「喜劇」という名称を付けたからに外ならない。
この二人の事柄に関しては他に文献も沢山あるのでここでは触れないでおく。ただ注意すべきは二人とも歌舞伎俳優の出であったこと、従って俄をドラマに仕立てるについて当然歌舞伎的に処理したことであろう。
「ともかくも従来の大阪俄のやるようなくすぐりやワイセツな駄酒落は絶対的にやめまして、極めて自然な滑稽を眼目にしてそれに幾分でも近付きたい。それにいままでの俄は、女でも毛肢を出したり、子供といっても青髭のある大供であったりして、ヌッと出てくるとすぐ笑はすのを肝要としております。あれはいくら笑っても真におかしいから笑っているのではありません。私どもは女子供はやはり普通。そのシグサや台詞や第一、作の脚色に向然腹がよじれるやうな滑稽を含ませるやうに心掛けております」(”十郎の一言葉” 演芸画報・明治四十年十月号)
曾我廼家劇の成功にならって、その後続々と喜劇団と称するものが関西を中心に誕生し、花々しい競演を展開した。明治末期における主な喜劇団としては曾我廼家をはじめつぎのごときものがあった。「楽天会」・「瓢々会」・「桃李会」・「新旧合同」・「喜楽会」・「京阪会」・「笑声会」。(「瓢々会」のことを「瓢々会」と書く人もあるが、私の見た限りでは「瓢」の字を使ったX・献の方が稍多いので、とりあえず「瓢々会」としておく。〉
この他にもまだ群少劇団が多数存在していたが、いずれも雑魚で、前記のなかでも曾我廼家・楽天会・瓢々会以外は物になっていなかった。いわば旧俄から脱し切れ化い未発展の状態にあった。
序でながら当時活躍した人々(五郎・十郎は除く)を列記しておこう。五郎・十郎に倣って、やはり歌舞伎の曾我物に因んだ名が多い。
まず曾我廼家では――蝶六 本名中村熊五郎、明治十一年生れでもと鍛冶屋の主人。俄が好きで五郎・十郎の曾我廼家一賂結成に参終始名脇役として活躍し、軽い自然なおかしみの山る風格を持っていた。代表作「ヘちまの花」、「五兵衛と六兵衛」。昭和十二年歿。大磯 明治二十三年生れ。名古屋の出身で幼少の頃同地の市川団三ヘ入門。市川利均郎と名乗っていたが、後旅回りからやはり名古屋俳優の沢村四郎五郎の門人となり白十郎と称し、いわば鍛帳役者だったが明治四十二年に曾我廼家ヘ入り、蝶六と並んで一感の重鎮となった。芸質は軽妙、女形を主とし、五郎歿後は甥の二代目を助けていた。「つづれの錦」の小さんなどが当り役。昭和二十九年に亡くなったので若い人たちの中にも知っている人が多いだろう。月小夜 新派の俳優で黒田透といい、ドサ回りの下積みだったが曾我廼家ヘ入り立女形となる。時之祐 新派の山口定雄一座にいて浅川清といっていたが、山口の歿後は白川広一の門弟となって一座を支えていた。小四郎 もと綿屋の職人で旧俄では大山亭双六といった。
楽天会では――中島楽翁 前身は大阪の落語家で特おもちゃといい、廃業して最初曾我廼家ヘ入り箱王と称したが間もなく脱退、初代渋谷天外とともに明治三十八年、楽天会を組織。
渋谷天外 旧俄では鶴屋間十郎の弟子で団治といった。現松竹新喜劇の二代目天外の実父であることは衆知のところ。芸風は淡々、大阪俄風としては最後の人だったとされている。
粂回通天 東京の落語家から新派ヘ入り、粂田貞二郎といって高田実や伊井蓉峰の下回りをしていた人。後五九郎一席や喜劇春秋座などで活躍した。
田村楽太 金物屋の停で旧俄では鶴屋団校といった。
瓢々会では――時田下三郎 歌舞伎の嵐吉三郎の門弟で嵐問之助といい、のちに義三郎と改名したが旧派では門閥があってなかなか頭を拾げること戸出来ないと思い、喜劇に転向した。
高橋義雄 新派では古顔だったが、ふと喜劇を思い付き種々の喜劇団を経て瓢々会ヘ入る。太平楽・太平洋・深沢一派コメディーといった劇団では重鎮だった。
中西卜六 三笑亭可楽という大阪の落語家。声色が巧みで一時旧俄の鶴屋一派に入ったがとうてい物にならないと思い瓢々会ヘ入座。
桃李会では――正玉。本名中島芳太郎 宮内省の馬丁をしていたという変り種。
碁雪 新派山川身で剣舞にすぐれた人。その他好・いろは 阿人ともに曾我姐家より脱退。
新旧合同では曾我廼家一満 難波屋という紛介原の息子で、曾我廼家創立時代の幹部だったが不平で脱退した。
当時東京でも深沢恒造・服部谷川・嵐橘町などといった人たちが苦心して喜劇団を組織したがいずれもて二回の公演で失敗してまった。よってこの種の喜劇は明治から大正へかけてもっぱら関西で隆盛を誇った。
しかしこれらとても大正中期ヘ入ると自然陶汰されてきた。すなわち楽天会・喜楽会・瓢々会などいずれも首脳中堅を失つであるいは倒れ、あるいは衰微して地方ヘ姿を消していった。楽天会は大黒柱の中島楽翁・渋谷天外相次いで逝き消滅、喜楽会も道頓堀を追われて新世界にいたが問もなくドサ回りの身の上となった。依然として羽振りの良かったのは曾我廼家一派だけであった。ところがこの曾我廼家に次ぐものとして新たに志賀.姐家淡海の一時がのしてきた。
淡海は本名田辺耕治ー明治十六年琵琶湖畔江州の開田に生れ、若い頃は堅回から大津ヘ通う船の船頭をしていたが、一声が大変良く引が巧みだった。その土地では盆踊りの賂興として江州春頭が践んで、勿論彼もその唄を得意とした。こういう些細な経験から、自然と芸で身を立てることを考えたらしい。また父が九重太夫という文楽の太夫であったので、その血も引いていたのだろう。やがて一座を作り、暮雪(前記、桃李会一派の暮雪と同一人物と恩われる)・晩鐘・唐橋・晴嵐・秋月など近江八祭からとった名前を賭員につけて江州を振り出しに一皇芝居をして歩いた。一里芝居というのはたとえば琵琶湖の周辺を一日に一里ずつ歩いて公演する天幕芝居のことである。やがてこうした巡業に行詰り、夫婦で大阪天満の国光亭という寄席で万才をやり、天満の国丸と称していた。その後また一応を再組織、志賀廼家淡海と名乗り、遠く九州から北海道まで巡業を続けた。明治四十四年に京都の国華座で公演したことがあるが、このときの一座には晴嵐・松露・朝日奈などという顔が見える。晴嵐は後、作家に転向した。
色物のかったものが多かったようだが、そのうち曾我娼家に刺戟されて喜劇もやるようになった。大正九年、九州巡業中に、これもまた巡業中の五郎に遭い、その際大阪の桧舞台進出の援助を依頼、五郎が引受けて帰阪したので土産物まで用意して待っていたがさっぱり音沙汰がないのでシピレを切らし、翌十年のが、京都の夷谷座で公演中の十郎のところヘ前記の晴嵐が使者となり、彼の知り合いで当時十郎一座にいた千鳥という役者を介して十郎に会い五郎と約束の一件を訴えた。十郎は内心「五郎さんめ、また得意の調子の良いことをいったな」と思いながら早速太夫元の豊島寅吉に取次ぎ、豊島の子で松竹ヘ交渉、道頓堀の弁天座ヘ出演の運びとなった。これが淡海の大劇場進出への足がかりとなったわけで、このときの出し物は「東天紅」・「粋なお母さん」などで、芝居はまだ泥臭かった。同年十月、東京有楽座で十郎一一段が否決中に十郎が高血圧のために倒れ、ために座員の大部分を淡海一座に合同させて「志賀廼家淡海一座、曾我廼家十郎劇幹部合同一座」の看板を掲げ、夷谷座で幕を開けた。これが十一月で、十郎が休演してから一月たたないうちのことであった。淡海としては恩わぬ幸運であり、このときに人気が盛上ったのである。淡海の芸風は、初めは泥臭かったが、全体を通じてみれば、枯淡な十郎に似てまた独特の味があった。ほかの喜劇人が旧大阪俄、または旧派、新派から転向、その演出も俄風のものを基調としたのが多かったのに対して、淡海は色物・万才の経験を基に、唄を持芸にしていたという特徴を持つ。淡海としては折に触れて芝居の中ヘ得意の唄を持ち込むのを常としたが、折角芝居が盛上ってきたところを彼が唄を唄ってプチこわしてしまうという事実も多く見られ、一座の中にもかなりの不満があったらしい。
”船をひきあげ 船頭衆はかえる
あとに残るは 櫓と椴波の音
よいしょ よいしょ”
といういわゆる淡海節はオールドファンには懐しい曲だ。これはあたかも志賀廼家の劇団歌のようなものだった。
かくて「喜劇」は、歌舞伎、新派に対し堂々と一つの演劇芸術としての新しいジャンルを獲得 した。興行的にも前二者を凌ぐものがあったし、またその歌舞伎・新派などから多数の転向者があったということも向日さるべきである。そして五郎は曾我廼家創立育成の功績をもって日本における「喜劇王」の名を怒まにしたのであるが、芝居の内零そのものはマンネリズムに陥ってしまった。すなわち俄は「膏劇」にまで発展したが「喜劇」はいつまで経っても曾我廼家創立当時の「喜劇」でしかなかった。教訓性・下賂背楽・女形……。それを打破ったのが曾我廼家五九郎である。