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後記
この本はかつて私が早稲田大学に修士論文として提出した「わが国軽演劇の形態」を基にして、これに加筆添削を施して全面的に書き改めたものです。この荒筋のようなものが六分通り出来上った三十六年の三月に突然の火災で自宅が半焼、折角苦心して集めた沢山の資料を大部分灰にしてしまいました。同じ項目の中でところにより詳、不詳の差があるのはそのためです。
一時はまったく出版をあきらめたのですが、ともかく現在わかっていることだけでも――と思い直し、不完全なところは承知の上であえて世に問う次第です。
こういった種類の本としては、さきに旗一兵先生の出された「喜劇人回り舞台」がありますが(その節は私もホンのちょっぴりお手伝いをさせていただきました)、その「あとがき」の文中にもある通り、大体大衆演劇に関する確実な資料文献といえるものははなはだ少なく、そういった意味でこの本も記事の裏付けに予想外の日時と苦労を要しました。
が、それにもかかわらず演劇史といえるほどの立派なものに仕立て上げられなかったのは残念です。
そんなわけで、本文中の不詳、不正確については識者・関係者各位の御教示を願えれば大変幸甚です。いずれ他日を期してより一層正確な資料を作る素材に使わせていただきます。さもなくば間違った記事がそのまま末永く活字として残ってしまいますので。
この一文を書き始めようと決心してからすでに二年近くも経ってしまいました。一つには会社の仕事が忙しかったためもありますが、やはり努力が足りなかったようです。恥ずかしく思っております。
なお、河竹繁俊博士からは序文をいただいたのみでなく全般についてあたたかい御指導御教示を賜わりました。
また取材については左記の方々に資料(写真・談話等〉の提供など、いろいろ御協力いただきました。末筆ながら厚く御礼申し上げます。
浅草座 石田守衛 大久保源之亙 尾崎倉三 笠置シヅ子 金井修 如月寛多 木村光子 越路吹雪 酒井俊 清水金一 早大演劇博物館 曾我廼家五一郎 谷幹一 東郷静男 常磐座 富井照三 中村メイコ 中山千夏 旗一兵 花田繁賊(悔沢竜峯)弘田三枝子 不二洋子 藤山竜一 益田喜頓 三鈴恵以子 森赫子 柳家金語楼 山田寿夫
(五十音順・敬称略)
附和三十七年 晩秋
向井爽也
軽演劇の凋落とストリップ・ショウの拾頭
終戦早々の東京には次のような新興劇団が互いに縦合集散しつつ出現した。
○「新風ショウ」-伴淳三郎・藤尾純・河津清三郎・武智豊子が主体で、これに宝塚から春江ふかみ・呉竹なおみが参加、作家には斉藤豊吉・山本紫郎などがいた。
○「空気座」-小沢不二夫、小崎政房らがスタッフとなり、潰れかかった寸前に新宿帝都座五階の小劇場で田村泰次郎の「肉体の門」をやり、これが大好評で息を吹き返した。回附潤・有島一郎・滝那保代・露原千草・左ト全、それに喜頓一座出身の三条ひろみなどが主な顔触れだった。
○「劇団新風俗」ー有吉光也のワンマン劇団で、浅草常磐座にあった。もとの名を「東京フォリーズ」と称した。
その他堺駿二・丹下キヨ子らの「東京レビュー」、水戸新太郎の「夢の王国・キドシン一座」、河津清三郎・本郷秀男の「劇団黒潮」、桜むつ子・伴淳三郎の「東京ロックショウ」、北里俊夫らの「アパン・ギャルド」、石田守衛・堀井英一らの「新カジノ・フォーリー」、山形勲・鈴木光校らの「文化座」、三角究ひきいる「人生坐」、高杉山た・丘秘児らの「劇団美貌」、桜むつ子・多々バ純の「新風俗」、山下三郎主宰の「新潮」、高尾光子劇団、三木知郎劇団、「なやまし会」と、「ドリーム・グループ」、「東京ブギウギ・バッテリー」などがあり、また戦前派としてはエノケン・ロッパが各々一座をひきいていたし、また邦楽座(後のピカデリー)には小堀誠・花柳小菊・桑野通子らの「明朗新喜劇」などという劇団があった。
ターキー・森川信などの一応は二十二年ごろから次第に不振となり、また清水金一も「金ちゃんのマラソン選手」、「シミキンの拳斗王」など映画で活躍する割合に舞台では振わなかった。
当時軽演劇の拠るところとしては、浅草では松竹座・常磐座・ロック座・大都劇場、新宿では、第一劇場・ムーラン・帝都座五階、丸の内では日劇、有楽座・日劇小劇場・池袋では池袋文化・アバンギャルド・人生坐などであり、また渋谷では渋谷東宝、それに東横デパートを改装して――私の記億よれば――三階に映画館を三つばかりと、四階に寄席(東横名人会とか称していた)を一っと実演劇場を二つ造った「東横アミューズメント・ストア」というものがあった。また丸子多摩川の多摩川凶遊同地の中にも多摩川倒劇場があったし、芝町村町の飛行館でも三木鶏郎劇団が「アイスクリーム娘」などというミュージカルを、公演していたのを見た覚えがある。
しかしこういった喜劇軽演劇はいずれも二十五、六年ごろになるとまったく不振状態に陥り、やがてヌード・ショウのすさまじい攻勢の前に屈した。
昭和二十二年一月、新宿帝都座五階の小劇場で突如上演された「額縁ショウ」は都民のど胆を
抜いた。これぞわが国におけるストリップ・ショウの濫觴で、この場合はストリップといってもただ泰西名画をパックに、裸女が額縁に収ってポーズをとっているといっただけのもので、それもホンの数秒で暗転してしまうものであったが、当時まだ裸というものに馴れていなかった観答には刺激と興奮を与えるに充分であった。
この企画を立てたのは秦豊吉で、演じたのは当時ダンシング・ガールとして入座していた十九
才の甲斐美春だった。詰めかけた客はそれこそしわぶき一つせず生唾を呑み込んでその豊麗な肌を見詰めた。これがパカ当りをして、このシーン一つを見るために連日通う客もあり、帝都座は大入りを統けた。敗戦直後の食糧難の折とて、何かの配給の行列かと思って並んでいたら帝都座の入口まで来てしまったという話もある。
この一座は、その後浅草のロック座にも出演したが、同年六月には、常盤座の森川信一座公演
「モッちゃんの花嫁」で桜真弓が一糸まとわずの姿で画家のモデルになって登場するに至った
。
目ざとい興行師連中がこれを見逃す筈はなく、かくしてストリップピショウはたちまち浅草六区に旋風を巻き起し、一大プームを迎えた。このころになるといわゆるストリップ・ティーズ――すなわち動くハダカが始まるわけで、上海帰りのヒ口セ元美をはじめヘレン滝・伊吹マリ・メリー松原などが名を売り始めた。浅草ではストリップ専門として浅草座・大都劇場・ロック座・美人座などが続々と新装開場、昭和二十四年から二十六年ごろにかけてその最盛期を迎えた。フランス座(新築)・カジノ座・公闘劇場・百万弗劇場、それに国際劇場までもがその廊下の一部を利用して国際セントラルという小さなストリップ小屋を作ったほどだった。また新宿でも新約フランス座・東京セントラル・池袋ではアパン・ギャルド、中央方面では東劇バーレスク・銀座コニー、その他江東楽天地、浦田、五反田にも各一軒、それぞれ裸女の制するところとなった。川崎には川崎セントラル、横浜には横浜セントラル、新世界バーレスクといったような小屋もあったがその後どうなったかは知らない。
昭和二十六年の常劇ミュージカルス「モルガンお雪」でもマヤ鮎川、リイ・ローズ、レイなどのストリッパーが出た。これはただ舞台を歩くだけのものであったが、ともかく伝統ある帝劇に堂々とハダカが出たのはこれが最初だ。その後「美人ホテル」、「赤い絨毯」あたりになると京園みどり、アンナ美鈴、K・水町、並木千鶴、暁竜子、ローズ丸山、風ミナ、ミス池上といったい面面が本絡的な踊りを見せるようになった。
ミュージックホールという言葉は、元来十六世紀の終りごろにオランダに出来たムジコ(音楽と踊りのホール)が転化して英語名になったものだという。日本劇場五階の日劇ミュージックホールはもと日劇小劇場といい、戦後はたとえば「ナヤマシ会」の復活公演、川路竜子らの「ドリーム・クラブ」、それから何という劇団か失念したが、菊田一夫の「鐘の鳴る丘」などを演っていたのだが、二十四年のごろからヌードに転向した。伊吹マリ・メリー松原・ヒロセ元美ら一流どころを引抜き、さらに奈良あけみ、マリヤ・ローザ、ジブシ・ロース、邦ルイズ、春川ますみなど統々とスカウト、丸尾長洲らが運営委員となり、丸の内らしく上品ぶったものを見せてきている。
どこの小屋でも、ハダカ踊りの場つなぎにコントなどを挟むのが普通で、当時オチぶれた喜劇役者やまた喜劇役者たらん者はいや応なくこういったストリップ小屋でエロ・コントを演じつつ棲息していた。いまをときめく脱線トリオの八波むと志は浅草フランス座から、由利徹は新宿セントラルからそれぞれ出たものだし、佐山俊二や谷幹一もフランス座にいたのである。
ストリップも最初は女の子がたった数名で、性映画と抱き合せなどしてチャチなものが多かったが、内容も段々充実、題名にも頭を使うようになってきた。「猿飛佐助平マン遊記」、「性部の王者」などはまだいいとして、「女のパクパク」、「女のネパネパ」などという何となく品のないものもあった。その他「煙突の入る場所」、「陽の当らない丘」、「オマンチ族のイカレ」、「火の接吻―イレチョクレ」、「弁天小僧はまぐり屋の場」といったようなタイトルを覚えている。「閨術祭参加作口問」なる肩書きをつけたのもあった。大体映画や歌の題名をモジったものが多いが、中味はどれもこれも同じようなものである。
そのうちただ衣裳を脱いで踊るだけでは客を摑めなくなり、日本髪の着物スタイル〈着物ストリップ)やお下げのセーラー服にしたり、客席ヘ降りてきてお酌のサービスをしたり、女剣劇まがいの剣戟ストリップ、肉強相撃つ女子プロレス、さては舞台に風呂桶をしつらえて全裸の美女の背中を有志の客が流すといったような趣向が試みられた。この風呂場シーンで、女の子が前に当てていた手拭いを面白半分にはいだため本気で怒られた五十がらみの親爺さんもあった。しかしこういったヌードショウも警察の目が厳しくなったせいもあってか二十九年から三十三年ごろにかけて急速に衰退し始めた。このころに転向したストリップ劇場は、浅草では公園劇場・美人座・百万弗劇場・また新宿では新宿セントラル・帝都座ショウなどである。
現在のストリップ・ショウが猥褻性をその目的としていることは間違いのないところだ。すなわち演劇芸術の一つの要素として裸女が登場するのではなくて、そのエロチシズムの効果手段として筋や科白が与えられているのである。もちろん対社会的に見てその作品の芸術性と猥褻性は全く別個に考えられなければならない。その芸術性の高きが故に猥褻性が否定さるべきものではないのである。ところで現行刑法の慨念上からゆくとストリップショウは明らかに猥褻罪の対象として取扱われている。
現在のストリップに将来果して一つの新しい演劇芸術に発展してゆく可能性が存在するであろうか。いわば演劇性が猥褻性を克服してあくまでも新規なドラマとして伸びてゆくであろうかということは議論の別れるところだ。(すでに前記日劇ミュージックホールにおいては、ただ刺戟的な裸体を見せるより全体をムードで包む演出法が試みられている。)これはストリップの本質問題に連なることである。楽観説としては、現在の歌舞伎もその当初阿国歌舞内なる卑しいエロ・ショウまがいのものであったのが徐々に発展してきたものであるから現在のストリップもやがてはそのように発展し、洗練化集大成化されてゆくであろうという。悲観説としては現状ではとてもそのような希望は持てない。ただ好色面のみが強調されて、エロ以外のものはてんで受付けないのがヌードの観客であり、折角コッた演出をしてみても「そんなものを見に来たんじゃねえぞ、早くハダカを出せ」と叫ぶ客が多いいま、「芸術性」なるものの入り込む余地は全くといっていいほどないというのである。後者の悲観説をとる人の方が多いようだ。またこれは私見だが、現在のように歌舞伎・新派・新国劇・新劇・剣劇・曾我廼家劇・軽演劇・ミュージカル等々とそれぞれ多種多様の演劇ジャンルがすでに確立され、その一つ一つが完成もしくは発展しつつ共存している状態のもとでは、いまのストリップがさらに「高級」な芸術として成長し、これら既成の誇芸術に対抗し得るものにまで仲びてゆく可能性は望み簿なのではないかという気もする。ともあれ、残念ながらここ当分の間は出歯亀諸氏の観賞用か、既成演劇のインサート用としての役割しか果せないようだ。
東宝劇団の興亡
宝塚少女歌劇の本格的東京進出を目論んで昭和九年、日比谷の一角に東京宝塚が建設されたことはすでに述べた。
しかし宝塚の東京公演は年六回であり、そうするとあとの半年間は劇場を遊ばせておかなければならない。その穴を埋めるために東宝専属の新劇団を結成することになり、同年の一月一三日から俳優の募集が行われた。千三百人の応募者の中から男十九名、女九名が採用されたが大部分は舞台経験のない者ばかりだった。このときはまだ東宝劇団とはいわず、東宝専属男女優と呼ばれていた。
三月に芸術座の水谷八重子一座の初出演に合同してバラエティ「さくら音頭」を演じさせたが、何分にも短期間の養成で、しかも映画出身の伏見信子・谷幹一(現在の谷幹一とは無関係)・沢蘭子あたりを除いては全く無名の新人ばかりだったので、案の定結果は芳しくなかった。五月に宝塚の坪内士行が上京して指揮に当ることになったが、その後夏川静江と歌舞伎畑の新人が三、四人加入したもにで、依然として強力な有名役者は引抜けず、同年の九月にやった単独興行でも、阪東寿二郎と汐見洋両人の客演も空しく、またもや不入りだった。なおこのときから初めて東宝劇団なる名称を使っている。演目は
一 海老原靖兄作「縁は異なもの」(懸賞本集したもの)
二 高田保作「かぐや姫」
三 坪内士行作「山田.長政」
の三本立てであった。
翌十年の六月、阪東簑助を迎えて有楽座に
一 並木二瓶作「寿曾我三番」
二 シュニッツラー原作、山本有三翻案「盲目の兄とその妹」
三 河竹黙阿弥作・八住利雄改作「人間万引金世中」
四 白井鉄造作「シューベルトの恋」(藤原義江出演)
を上演した。
その後市川寿美蔵(現寿海)、もしほ(現勘三郎)、高麗蔵(現団十郎)、芦燕(現我輩〉といった歌舞伎畑の青年俳優が続々と入座、劇団の内科性格を一変させるに至った。同時に、文芸部も従来の坪内士行・島村竜三・園地公功・川島順平らに替って青柳信雄・金子洋文・八住利雄らが中心となった。
このころの出演者としては、ほかに中村駒之助・中村福助・小佐川鶴之丞・片岡右衛門・沢村宗之助・神田三郎・高橋豊子(現とよ)らがいて制合と多彩な顔触れだった。当時ここの大部屋に森繁久弥がいた。
東宝劇団としては、従来の歌舞伎や新劇に代る国民のための新しい現代劇の創造ということを表看板にしていたが、しかしちょうど同じころに東支ヘ引抜かれた緑波やエノケンらに喰われて劇団は段々液ち目となり、十三年には夏川・舟海、十四年にはもしほ・袋助らも相次いで退座、その問宝塚から雲野かよ子などが入ったが力及ばず、、遂に消滅してしまった。
しかしそれから四年後の十八年五月、第二次東宝劇団が結成された。采配を振っていたのは渋沢秀雄(後に滝村和男が代る)で、その下に菊田一夫がいた。
若手の歌舞伎役者を主力としていた第一次組に対して第二次組の方は問謙二・小夜稲子を中心に、永田靖・伊達信・高橋豊子といった新劇人で固め、従って専ら典型的な現代劇の発表をその目的としていた。
旗揚げ公演は同年六月の帝劇で、北条秀司作・佐々木孝丸演出の「ピハリ・ボース」、菊田一夫作・演出の「紅の翼」なる現代劇だった。以後三回公演までが帝劇で、四回目の公演は有楽座だった。これが十九年の二月で、出し物は金子洋文作「岡倉天心」、それに丹羽文雄原作・菊田一夫脚色「今日菊」の二本だった。水戸光子・日守新一らも参加して前評判は良く、切符の売れ行きも上々だった。しかしその舞台稽古の最中、決戦非常措置令による劇場閉鎖の命令が出て、この第四回目公演は陽の目を見ないままにあえなく潰れ、そのメンバーはやがて移動公演専門の劇団と化した。
「ムーラン・ルージュ」と新喜劇運動
赤いルージュにひかされて
今日もくるくる風車、
私のあなた あなたの私
ラムウ ラムウ ムーラン・ルージュ
一辺みたらばもう一ば
残る思いの風車、
私のあなた あなたの私
ラムウ ラムウ ムーラン・ルージュ
必をしたならいつまでも
永久消えない以車
私のあなた あなたの私
ラムウ ラムウ ムーラン・ルージュ
胸にタップの靴の音
寐ても消えない風車
私のあなた あなたの私
ラムウ ラムウ ムーラン・ルージュ
(サトウ・ハチロー作)
新宿座に「ムーラン・ルージュ」が誕生したのは昭和六年の十二月三十一日で、その興行主は玉木興行部から独立した佐々木千里である。定員は四百三十名という小劇場であったにもかかわらずこのムーランは軽演劇の史上に特殊なエポックを残した。ムーランはその後昭和十九年十一月松竹の経営に移るまでに四円二十回余りの公演を記録している。当初の座員としては中根竜太郎・石田清・藤尾純・有馬是馬.毛利幸尚・武智良子・三島謙(後の曾政廼家五郎八〉・羽衣歌子らで、開場番組は次の通りであった。
一「猿の顔はなぜ赤い」(清水閨抽作)猿‐中根竜太郎・沢文子、羊‐春日芳子、犬‐有馬是馬、鶏‐藤尾純、蟹‐石田清、孔雀‐松木みどり、ライオン‐辻復二、馬‐三島謙
二 モダニズムナンセンス「ウルトラ女学生」(中村正常作〉武智豊子・清州すみ子・南部雪校・吉住芳子・神田千鶴子
三 舞踊「ピエロは嘆く」(石井漠振付〉寒水多久芝・浦田勝・岩波美笑子、「アニトラの踊り」石井みどり、「憂愁の印度」笹田美佐子、「ナイトさん」轟美津子、「ハンガリー狂詩曲」全員。
四 「歌唱」(楢崎勤案)独唱‐毛利幸尚・ハリー政・藤本政子・白井順・羽衣歌子。
五 大人用お伽ナンセンス「恋愛禁止分配案」(高田稔作)
六 レビュー「水兵さんはエロがお好き」(当馬吉作中・荒尾静一振付)そしてこれには石井漠振踊団の賛助出演があった。
旗揚げ公演の出し物は大分盛沢山だったが大体特例劇が三本にバラエティが一本というのが通
り相場だった。
ムーランの舞台は一口にいえば浅草におけるカジノの手法を継承したものであるといえるが、しかし浅草に対する新宿という別の立地条件がその性格をカジノとはまた異なった独特のものにした。新宿は周知のごとく興行地としては浅草や築地などに比して新興的な存在である。 その盛り場としての発展は、いうまでもなく中央線を初め小田急・京王・西武各線の沿線が
住宅地として新たな発展をしたことに起因する。すなわち、旧市内山の手の住宅地が過飽和の状態に達するとともに第一次世界大戦の好況の影響もあずかって、住宅は郊外へ急激に膨脹し、殊に中央線の発展振りはますます沿線に田園都市を発展せしめたのであるが、これら各線のターミナルとして発展した新宿は、アミューズメントセンターとしても浅草とはまた違った性格を有するようになったのである。いわば学生、サラリーマン階級たる山の手人種が主な客種であった。
そこでムーランは当初から意識的にインテリ層を覗った興行体制をとった。その一つの大きな例が、従米の軽演劇が爆笑人気スターを答寄せの看板にしていたのに対し、作品それ自体にょって新風を送ったことである。
支配人の佐々木千里はもとオペラ歌手で、戸山千里といった。車業隊業成所の戸山学校の出身で、彼の吹くラッパは千里の先まで聞えるというので、戸山千川いと名乗っていたわけだが、そのラッパを実際に聞いた者は余りいなかったようだ。
しかしこのムーランも昭和八年頃までは財政難で、座員の給料も滞りがちであり、佐々木千里もも非常に苦しい思いをした。玉木座を退いたサトウ・ハチロー・菊田一夫も文芸部ヘ入ってきたが、それでも存足は芳しくなかった。そのムーランが活況をけ見せ始めたのが昭和八年の春ころで、一座の歌手高輪芳子が新宿のアパートで青年作家とガス心中したのをジャーナリズムに書き立てられたのが人気を煽ったのだという。しかしカジノのズロース事件や「浅草紅団」の影響のときと同じように、最初の動機はともかく、以後客足が増えたことの原因は矢張り内容の良さにあったことはいうまでもない。他の劇団にはなかった感覚の若さ、垢抜けした演出の魅力、そういったものがフレッシュな俳優達の活躍とあ相まって、山の手インテリ層や学生ファンを巧みにキャッチしていた。
島村竜三をチーフとする文芸部はムーランの中で最も重要な機能を持っていたが、中でも斉藤豊吉と伊馬鵜平(後の春部〉の活躍に負うところが大であった。初期ムーランの脚本における独特の感覚は、この鳥村・斎藤・伊馬、それに山田寿夫らのスタッフによって作り上げられたと見てよい。
しかしムーランが興隆期を迎えるとともに一座の中にも妙な派閥争いじみたことが行われるようになり、先ず島村が昭和八年の八月にアッサリと退座してしまった。山田と伊馬の二人が鳥村と行動をともにするとイキまいたが結局なだめられて思い止まった。竹久千恵子はこのとき島村と一緒にPCLヘ転じたが、入れ替わりに水島道太郎・水町庸子・明日待子、それに文芸部ヘ穂積純太郎が入座した。
ムーランとしては旗揚げの昭和六年から翌七年の秋頃までが第一期で、軌道に乗り出した八年
の初頭から十年頃までの最盛期が第二期、次いで戦時中から終戦にかけてのほぼ十年あたりが第三期、終戦後を第四期とわけることが出来る。
ムーランの第二期、すなわち隆盛を迎えた昭和八年切からは伊馬の活躍が目立つ。同年六月の
「QRとパラソルと」、七月の「川北画伯の令息令嬢」に次いだ書いた「閣下と桃の木」(九月)は、折柄の非常時日本をパックに、話題の人物ファッショの総本山氏、転向派の巨頭氏、荒木陵相を思わせる某氏等々が登場、暗躍するさまを描いた作品で、軍国主義を痛烈に諷刺したものであった。
しかし伊馬は同時に、極めて優れた市民生活描写の力を持っていて、この「閣下と桃の木」のあと直ぐに「桐の木横丁」を発表して別の一面を見せた。これは純然たるスケッチ風の喜劇で、その後も.再演されている。話は前後するが同年五月の「溝呂木一家十六人」も同様な傾向の佳作として忘れてはならない。
このあと増税と下層階級の生活に取材した「猫と税金」(十月)、児童虐待防止法案に対する一つの疑義として慰問かれた「ネオンの子たち」(十二月)などがこの年の伊馬の話題作であろう。
「ネオンの子たち」いずれも孤児のミネ公・すみえ・つる子の三人は法律実施のため稼ぎが出来なくなり、さるブルジョアの家庭ヘ引取られる。自称慈善家のそこの夫人は物置小屋に少々手を入れて「清心寮」と名付け、三人を押込めてしまう。子供達は毎日面白くもない讃美歌を無理矢理に唄わせられ、神の愛についてのお説教を聞かされるが結局いつまでたっても身も心も救われないといったもので、ミネ公を春日芳子・すみえを近衛秀子、つる子を轟美津子、夫人を水町吟子が演じた。
これに対して斎藤豊古はラクゴチックプレイと銘打った時代劇や長閑な学生物などを書き、劇
中では科白の面白さなどで人を惹きつけることが多かった。しかし八年の十月に公演した「往復ハガキ」は伊馬とはまた作風の違った現実批判で話題をさらった。――社会矯風会々長兼思想善導理事長なる予備陸軍中尉本田清秀が、親に背き、これを失脚させたわが子が法界屋姿で妻君とその連れ子を作って帰って米るのを、名誉と世間態を長んずるがために追放する――といったもので、鋭い諷刺とともにペーソスの盛り方も巧みであった。一般的にみて、伊馬の知性派に対し斉藤は感性で物を書く人である。
彼はまた「往復ハガキ」と似たようなタッチで十一月に「青空」を書いている。――家出した娘が世界的なソプラノ歌子になって帰って来る。しかしそれまでチャプ屋に働いていたことを無慈悲なジャーナリズムが嗅ぎつける。虚栄心に満ちた継母は去り、後に残った父と娘は窓の外を見ながら初めて本当の肉親愛に自党める――という筋である。
これと同じ週に山された穂積純太郎の「失業侍気質」も異色あるものであった。――赤穂の浪人宮内左内は妻と三人の子を抱えて貧しい暮しをしている。やっと見付かった新しい仕官先、それは憎むべき吉良邸だった。また一人の男の子が生れる。昔の友人は皆義士の誇りに輝いている。しかし彼のみは妻と子供たちのため、弱虫、卑怯者といわれながらもじっと耐えてゆかなければならない。父親としての小市民の弱さを描いたものであった。
島村竜三はせっかく文芸部長になりながら海浜スナップ集「海の女達」(八年七月)を最後に、「恋愛都市東京」(同年二月)のほかは別にこれといった快心作も残さぬ儘、既述の通り八月にムーランを辞した。
そのほか、五人の貧之青年画家と一人のモデルのいきさつをスケッチした水守三郎・小川丈夫合作の「入選二原色」(九月)や、立派な洋館に住み、その実暮らしに困っている若夫婦にいろいろな人物がからんで当世人間相をひけらかした山田寿夫の「貸間あります」(九月)、貞淑な軍人の老未亡人の新根幹を題材とした妹尾修策「白系ロシヤの氷し人」(十一月。また主人公は別に白系ロシヤ人ではない)等がこの年の話題作といえよう。
俳優陣では有馬是馬・森野鍛治哉・外崎恵美子・池上喜代子・鳥橋弘一・三国周三・望月美恵子・大友北之助・水町玲子(後、庸子)・原秀子などの活躍が目立ち、音楽では月丘光、振り付けでは勝三郎・鹿島光滋らがそれぞれ奮闘、また歌い手としては土屋伍一・新田洋子がいた。
明けて昭和九年には、近い中に戦争のあることを予想して殺人光線の発明に夢中になる男をテーマにした山田寿夫の「一九三六年」(一月)に次いで二月五日から公演の「改正通り六丁目」が先ず注目されよう。これは妹尾修の作、出山になっているが実際は伊馬が書いたもので――東京の古い町が次第に新しくなって改正通りが出来、馴染み深い旧町名が替って改正通り六丁目となる。その町に昔から住み、亡き主人の恩給で暮している母と兄妹の一家を舞台にしたもので、水町が母、有馬が息子、望月が娘をそれぞれ演じた。もっともこの周にはもう一つ、「新版桃太郎」なる傑作があった。これは「人物評論」二月号に載った加藤悦郎原作のものをムーラン文芸部が脚色したもので、桃太郎が出征、凱旋してみると爺さん婆さんが餓死しているという、何か暗示めいた作品で有馬・大友・鳥橋・郷宏之が好演した。三月、映画「会識は踊る」をモジった「会議は流行る」(恭村多紀男案・伊馬作・演出)を上演したが、これは文相収賄、右翼テロ等を採上げた鋭い諷刺物だったため、検閲の際数カ所のカットを強要された。なおミュージカルものとしては三月十五日からの「トピック交響楽」(山田作)が光っていた。
次いで二十四日から公演された伊馬の「かげろうは春のけむりです」全五景はこの年のムーラ
ン、否軽演劇界における最高の作品と称していいだろう。有馬の小学校の先生を中心に、市井人の.市井人の平凡な生活をスケッチしたもので、大友・三国・若草節子らに加えて漸くこの頃から明日待子の名が見受けられる。その後伊馬は調刺的な悲劇「鏡の中の蝶」(四月)、小品喜劇「入江の五月」(五川)を経て七月にはヨーロッパの某国を背景に、ファッショ、国粋主義を痛烈に皮肉った「或る銅像の食欲」を発表した。
ムーランが興降期へよるとともに「新喜劇」という言葉が使われ出した。現在でも渋谷天外が「松竹新喜劇」などと称しているが、それとは全く意味の違ったもので、ハッキりした改革意識がバックボーンとなっていた。先にも述べたごとく、当時多くの喜劇なるものが爆笑スターの人気で本を昨んだり、珍妙なセリフやアクションで笑わせたりしていたのだが、ムーランではインテリ層をねらった新感覚の脚本に特徴があったのである。こういったことが動機となってやがて伊馬鵜平・水守三郎・佐伯秀夫・菊谷栄・小鳥浩・飯舟正といった連中を中心に「新喜劇」なる同人が出来、九年の六月に築地小劇場で公演することとなった。プログラムは
一 飯島正作「スキャンダル特輯」
二 塩谷雄四郎作「あゝ結婚は近付けり」
三 島村竜三作「恋愛都市東京」
で、作井明・末広節子・藤原釜足が演じた。しかし公演の内本そのものは「ムーラン」や「笑の王国」と地統きの感じで、特に画期的といった科ではなかった。
その直後、やはり同じ築地舞台で上演された伊馬の「閣下よ静脈が……」は充分期待に応えたものであった。高血圧と動脈硬化を心配している一人の閣下を中心に、実業家、レビュー劇場支配人、気の小さいサラリーマン、満州ヘ行く豪傑等々を登場させ、「今日の日本を描いている点では初めての詳劇」といわれた。劇団は前術的な色彩を持った美術座で、閣下には滝沢修が扮した。これは改訂されて「ホロロン閣下」という題で翌十年五月、新喜劇団の浅草公演(松竹)でも上演されている。
このほか「初夏の煤州」〈小崎政房作 五月)、「ガソリンと婦人科氏」(山田作、六月)、「にんしん」(斉藤作、六月)、「愁色未亡人」(小崎作、十一月)、「百万両のお地蔵さん」(山田作、十一月)、「日曜日物語」(穂積作、十二月)などがこの年のムーランにおける話題作といえよう。
また俳優では四月に有馬是馬が辞め、その穴埋めとして沢村い紀雄が前進座から入座した。彼は役者の他に振付なども手伝ったりしていた。また明けて十年の三月には、一旦脱座して浅草の万威座に出ていた石田清が復帰したが、暫くの間浅草調が抜けなくて困った。
この年における脚本としてはまず穂積の「風呂屋の煙突はなぜ高い」が上げられるだろう。穂積は作品の傾向として伊馬や小崎の影響をかなりハッキリと受けていたようだ。続いて阿木翁介の「燕は雨に濡れて来た」(四月)、「葉書少女」(五月)、斎藤の「女の世界」(六月)など佳作が相次いだ。「燕は雨に……」は”母と子シリーズ”の第一作となっている。
シリーズめいたものではもあった。”物語シリーズ”といったものもあったし、”ムーラン哲学”というのもあった。
このムー哲とは常に出し物が四つか五つある中の最後の”バラエティ”の中に出てくるもので一座の名物だった。大学教綬に扮した役者が客を学生に見立てて珍妙な講義をするわけだが、そんなところにもインテリ学生層に対する企画の狙いが伺われる。
伊馬は「葉書少女」のあと目立って活動がにぶくなり、やがて六月の「国旗のハタと町会長」を最終にPCLへ走った。同時にムーラン全体に混迷と低調が一寸の間訪れた。有馬・大友・鳥橋・森野などという達者どころが抜けたのも響いたようだ。しかしこの通り曇りも間もなく晴れて、十月には小崎の「お妾横丁」、斉藤の「母の再婚」などの傑作が出て勢を盛り返した。伊馬のあと穂積、山田も脱退して東宝へ走ったが、穂積はその後もときたま脚本を提供していた。
対座した伊馬は島村竜三らと組んで、いわゆる新喜劇作家、評論家よりなる同人で雑誌「新喜劇」を創刊させ、新喜劇運動の具体化に尽くした。なおこれにはエノケン文芸部のみ不参加だった。
こういった運動は当時の新劇界の不振停滞の中にあって殊に注目を集め、劇界へ少なからぬ清新な空気をおくり込んだ。新劇の不振とは、いうまでもなく当局の弾圧によるものである。
伊馬の抜けたあとは阿木翁助の抬頭が目立つ。彼は築地系の左翼演劇から転じてきたもので、十年三月の「新宿胃腸病院」あたりから時代にのし上がってきた。多作はしなかった。彼はまた十一月に「あんどん・ヒコーキ・秋の雨」という秀作を物にしたが、この頃、やはり左翼演劇出身の浮田三武郎が梅小路昭篤とともに入座してきた。
十二月には四周年記念として久作のリバイバル公演を行った。プログラムは、
一 斉藤豊吉「島の娘」(八年四月)
二 横倉辰次「やくざ仁義」(同)
三 小崎政房「愁色未亡人」(九年十一月)
四 伊馬鵜平「桐の木横丁」(八年九月)
他バラエティ一本で、カッコ内は初演のときである。
この月には小崎の「看板裏」、斉藤の「煉瓦のかげ」、それに退座後の伊馬が寄せた「毛系風俗」など佳作が相次いだ。「看板裏」は経営不振で閉店することになった場末のカフェーの最後の一日を取扱ったもので、ここに出入りする人々を通じて人情世情の機徴うぃ描き、市井劇としては至上のものと評された作品である。
これより先、「笑の王国」から東宝へ引抜かれたロッパ一堂を中心に、「東宝バラエティ」が組織されたが、島村・穂積・山田らのスタッフが活躍、また森野や望月なども出演してムーラン出が幅を利かせたが、十二月公演(有楽座)では「桐の木横丁」を穂積の演出で見せたりした。
このあたりまでは「新喜劇」といっても、一部の識者・当事者・ファン層の問だけにいわれていただけで、いわゆる演劇批評家たちは、浅草や新宿の喜劇などまともに採り上げようとはし
かった。が、ロッパらの有楽庖公演に始まる新興喜劇の丸の内進出は さきにも述べたような島村・伊馬らの運動と相まって、こういった批評家、ジャーナリズムにも漸く開眼の機会を与えるに至った。しかしロッパはともかくとして、ムーラン派の述中にしろ、エノケンにしろ、東宝ヘ引抜かれてからの方が概してがらなかったのは皮肉である。もっともムーランにおける幾多の辺肢も単に好条件を求めてのことではなく、船内の派閥問題などにも起因していたという。それは既述、ムーランが興隆期に入った頃の鳥村の脱退に始まり、やがて川本翁助らも脱けて吉本興行傘下の浅草花月ヘ走る原因にもなった。
十一年の正月二の替りのムーランは、阿木の「女中あい史」、斉藤構成演出のバラエティ「安宅の関」、横倉辰次作「七種は門松とって風呂に入り」など三つの佳作が集まった。石井美笑子・ 望月美恵子・姫宮接子などの達者な踊り手が居なくなって、バラエティなど特に淋しかったが沢村い紀雄・山口正太郎・明日待子などという連中がさらに進境を見せて舞台を救った。
続いては斉藤の「出戻らなぬ花嫁」(一月三の替り)、小崎の「うぐいす日記」、斉藤の「春愁尼」(いずれも三月)、横倉の「都会のはらわた」(四月)が上げられるだろう。「うぐいす日記」は、ある示教の教会の支所に勤めている人物の生活を描いて宗教と科学の対立を諷刺した異色作、「春愁尼」は春に悩ましい若い尼僧達が寺ヘ逃げ込んで来た美男の務武者を中心に繰りひろげる葛藤、また「都会のはらわた」は自由労務者の群を揃いたものだった。なおこの週から望月が一旦復帰、裾模様を着て客席ヘ挨拶をしたりした。また望月とともにいつもバラエティの人気背だったタップダンサーの姫官接子は退座後一旦新興映画ヘ入ったが間もなく浅草の花月ヘ山演するようになった。
ムーランの題名に随分変った茶目気のあるものが多い。来日中のマーカス・ショウをもじった「ゴマカス・ショウ」とか、「トイレット・ド・パリ」、あるいは「小菩薩峠」なる時代劇もあったし十一年五月の百四十九回公演にはこんな出し物もあった。いわく、
一 虫明兵衛作「男・男・男」
二 斉藤豊吉作「女・女・女」
三 上代利一「児・児・児」
四 バラエティ・緒方勝厚生、康本晋史振付「流儀・流儀・流儀」
でいずれも佳作だった。これに対するキネマ旬報の批評の見出しが「結構・結構・結構」というものだ。
緒方と康本は緑紅葉・鹿島光滋・勝三郎などと言う人たちとともにムーランの初期から興隆期へかけて活躍、独特のウィットに富んだバラエティを作った人だ。荒尾勝太郎などという人も同様な意味でも忘れてはならない。音楽面では月丘・土屋・新田らの他にイタノヤスシ・藤田克郎・加美加那子・北川美枝の作編曲、そして舞台装置では本城教安・海藤泰助などの奮闘が光っていた。
昭和十年に「東京バラエティ」が結成されたことは悦述の通りだが、十一年の八月にはまたそれとは別に島村竜三を中心とする「劇団新喜劇」が生まれた。泰豊吉が統轄するもので、同月の二十一日から日劇で幕を聞けた。出したものは伊馬鵜平作、島村演出の「地下街で拾った三万円」で、森野鍛冶哉・有馬是馬・藤尾純・郷宏之などのムーラン出が競演した。
昭和十年のロッパの移籍から十三年のエノケン劇団との専属契約に至るこの当時の東宝の喜劇界に対する攻勢はすさまじかった。と同時に、後に述べる「新喜劇座」の結成もあって、このところ「新喜劇」という名前が氾濫したが、十一年の九月にはこういった新喜劇の作家連、すなわち伊馬鵜平・穂積純太郎・小崎政房・菊田一夫・水守三郎・鳥村竜三・山田寿夫・斉藤豊吉・仲沢清太郎・塩谷雄四郎などでグループが作られ、脚本はもとより、映画のジオドラマの制作、主題歌作詞・演出・バラエティ構成などの注文に応ず手こととなった。「劇団新喜劇」はその後武智豊子・谷幹一(現在の谷幹一とは無関係)などを擁して江東劇場や東横映画(現渋谷東宝〉などで公演を続けたが、幹部俳優が抜けて、十三年の三月にが実散となった。
七月の一日からムーランは名古屋の歌舞伎所に出張公演した。出し物は東京で既演の「お妾横丁」、「初夏の煤煙」、「煉瓦のかげ」、「女中あい史」などだったがこのときに一座の中の不満が表面に出て遂に阿木、浮回、沢村をはじめ十名余りが脱退する結果となった。返照した阿木・序回・沢村らは吉本興行ヘ走って「新喜劇座」を結成、九月一日から浅草花月で、旗揚げ公演を行ったが、このことに関しては項を別にしたい。
一方、騒動後のムーランは巻き返し作戦の意気もあって九月一日から浅草観音劇場で支店ともいうべき「浅草ムーラン」を旗揚げさせた。オペラ館から木村時子・石川守衛・田島辰夫、金竜館の「マツタケフォーリー」(後述)から川公一・小宮凡人・原田勇・舎利英一・朝香務、旧ムーラン系より増田晃久・南部雪枝・丸山夢路、それと黒木憲三・長嶋徳子らの歌手陣を加えたものであり、その第一回は小崎の「お妾横丁」、斉藤の「春愁尼」などで、以後も主として新宿で評判が良かったものの再演だった。新宿からも明日待子・小柳ナナ子・山口正太郎などが応援に掛け付けたりしたが所詮浅草の土地には馴染めず、お決まりの経営難で翌十二年、十五回公演を終えた一月二七日を最後に解散した。
ところがそれから二月ばかりした四月一日、今度は京都に「ムーランルージュ・京都」と称する一座が旗揚げされた。元日活情報課の宇田川寒待が、三友劇場主竹本藤吉と契約して起こしたもので、東京の本家とは無関係であることを声明したが、第一回の番組には東京で既演のものが選ばれている。すなわち、
一 永見隆三作・石川常夫演出「チンどん底」
二 小沢不二夫作・安藤清演出「裏町りゃんこ酒場」
三 小崎政房作・木場京介演出「学生万才」
四 松山宏構成振付・寺田文男音楽・バラエティ「京都桜まつり」他に歌謡曲が十二曲で、装置は村井正一が担当した。安藤清はかつて浅草ムーランのスタッフであり、京都ムーランではチーフ格で、脚本演出に孤軍奮闘したが結対息切れがして京都ムーランは程なく解散となった。参加した俳優の名は不詳である。
阿木らの脱退後ムーランは文芸都の拡充をはかり、金杉淳郎・酒井俊・金貝小象(後の省三)を新たに入座させた。なおその前年小沢不一夫が入座、既に花々しく執筆を始めており、新加入の金杉らと相まって斎藤、小崎らの古参陣を媛けるに充分だった。またこれとときを同じうして俳優陣に佐勝久雄、千家久江らが加入した。
金杉はそれまで十朱久雄らと一緒に、慶大仏文科の学生を中心とした劇団「テアトル・コメデイ」を組織していた。ムーランヘ入ってからの第一作は十一年十月の「おとなの時間」で、これはよそ日には佐だ付時じいが、その笑おぱいに版の中ではいつも別のことを考えながら暮しているという、ある冷たいブルジョア夫婦をスケッチしたものだった。しかし金杉はそれから一年利で惜しまれつつ他界した。その間の主な仕事としては「母の放送」の作・演出(十二年三月)、伊藤純作「藤原閣下の燕尾服」(十一年十一月)、平田稔彦作「怖るべき子供たち」(ハ十二年四月)演出などがあり、そのうち「母の放送」は十二年の十一月に金杉追悼の意味で特に再演されている。
しかしこの頃になるとだんだん戦時色が濃厚になり、ムーランも次第に「時局を認識」することを余儀なくされた。パラエティ「空襲と防備」 (緒方勝案・十一年六月)などという題名に早うもそれが現れている。この辺りムーランは最早一つの完成期にさしかかっていたといえよう。創立当初の佐々木千里のオペラ趣味に浅草調レビューの方式を取り入れ、モダニズム・ナンセンスの茶目気とエロを少々加えての明るく溌刺とした舞台に替って、上品なムードと香りを持った小品喜劇、抒情的な作品が多くなってきた。時局の重圧、右傾化を余儀なくされることに対しての逃避がますますそういう傾向を強めたのも否めない。
十一年の後期では上代利一の「江東おから新開店」(十月)、堀江林之助の「露地の唄」(同)それに左卜全の持ち味を充分に生かした芝本篤孝の「水茶屋風景」(十一月)などが評判翌、また翌十二年における代表的な作品としては琴平京平「癈娼是非」(二月)、金貝省三「青雲塾の子供たち」(六月)、小崎政房の「下界」(九月)、同「少年部隊」(十一月)、さらに十三年には小沢不二夫「にせあかしや」(三月)、小崎の「級長」(九月)、また十四年には吉田史郎の「城此の町」(三月)、金貝の「修学旅行」(十月)、小崎の「木炭」(同)などがそれぞれあげられる。「級長」では、有島一郎が小学生の先生をつとめて認められ、一躍スターにし上がった。
十三年の十月あたりから十四年へかけて座員の陣客に一寸した変動があり、南部たかね門下の
亦間夏代・田宮トミ子・オペラ館の天勝一座にいた黒木憲三、ロッパ一座の丹木本俊之、信仰キネマより復帰の春日俊など踊り子、演技部ヘ数名、振付久保出長太郎らの新加入があり、また一方藤田克衛、八条篇子の脱座に続いて望月美恵子・馬野郁留子・北川美枝子・三国周三らがそれぞれ辞め、二月にはロッパ一座から柏正子が新たに加わった。
脱座した望月・北川・馬野らは大阪ヘ走って、十四年一月、宝塚中劇場における「宝塚ショウ」の旗揚げ公演に参加した。「宝塚ショウ」とは先に解散した京芸系の「劇団新喜劇」の流れを汲むもので、旗揚げの際は文芸部に志村治之助・高山雄三郎・斉藤豊吉、演技陣に森健二・田島辰夫・大江太郎、それに女剣劇の玉水昌子や宝塚の緑牧葉・東路子なども顔を並べ、六月からは藤尼純・武智豊子・森野鍛治哉・南部雪枝らも参加した。穂積の「風呂屋の煙突はな験ぜ高い」などムーラン系のものをよく上演したが、そのほか歌や漫才、奇術等も挟まった雑然たるプログラムだった。森健二は間もなくここから抜けて藤尾純・有馬是馬とともに「高速度軽喜劇」なるグループをつくり、大阪浪花山内に拠ったが、なにせ大阪人の好みに合わず、僅か三月足らずで退散してしまった。
昭和十五年はいうまでもなく紀元二千六百年記念、そして翌十六年は大東亜戦争勃発の年であ
る。軍部の応力はいよいよ激しく、ムーランの内客も戦時体制に入るを余儀なくされた。敵性の横文字は怪しからぬというので、バラエティを音楽作文にしたり、またムーランルージュという名も十九年一月には作文館と改称させられた。
こういった時勢のなかで、十五年には中江良夫、十六年には稲川速志、十八年には菜川作太郎がそれぞれ文芸部に入った。当時の代表作としては金貝の「芒」(十五年九月)、中江の「地層」(同年十二月)、小沢の「大津紀行」(十六年四月)、加納治の「伽藍」(同年二月)などが上げられる。中江は戦時から戦後へかけての文芸部における中心的存在で、上記「地府」のほかにも「花の番地」(十八年四月)、「怒濤の町」(同四月)、「海の音」(十九年二月)など多くの佳作をものにしている。そのころの俳優陣は左卜全、明日待子・外崎恵美子・小柳ナナ子をはじめ、黒木窓三・松木瓶太郎・山口正太郎・それに野々治介、村川連夫ら、また美術面では橋本欣三が活躍した。
十九年十一月、ムーランは佐々木千里の千から離れて松竹の経営するところとなったが翌二十年内月の空襲で全焼、そのまま終戦を迎えた。二十一年、その焼跡に浪曲の寄席「笑楽座」が建てられたが、中江が復員すると間もなく、残党の小柳・明日、それに宮坂将嘉らを中心に「風車劇場」として復活した。ところが「ムーラン」の座名はいつの間にか他所の劇団に使われていたので、やむなく一時「赤い風車」と称して公演を続けた。二十三年春にやっと旧名ムーランを取返したが、それから僅か三年後の二十六年夏につぶれた。
中江は「栄養失調論」をはじめ、「太陽を喰べたネズミの話」、「生活の河」、「にしん場」、「性病院」など社会的問題を扱った佳作を次々と発表して話題をまいた。その他文芸部では葉川作太郎・吉田史郎、俳優では小柳・明日・野々らがそれぞれ健在であり、これに三崎千恵子・若水ヤエ子・利根はる恵・楠トシエ・由利徹・外野村晋・小用純らの達者どころが顔を並べ、歌手では波多美喜子、踊りでは中井満佐子・小滝町子らがいた。また春日八郎や中島考もそれぞれ渡辺実・中島義考といった名前で歌っていたし、志村俊幸がコメディアンと音楽の両面で活躍したのもこの頃だった。
やがて二十三年、森繁久弥が入座、たちまち存在を認められた。彼の当たり舞台は二十四年四月に上演された吉田史郎の「蛇」と同年十月の芸術祭参加作品「太陽を射る者」であった。前者は当時話題となった「老いらくの恋」の歌人用田順の事件に村を得たものであり、森繁としては初めての老け役で、相手は小柳ナナ子だった。しかし森繁は二十五年に脱座してNHKラジオの「愉快な仲間」に出演した。この「愉快な仲間」は藤山一郎・越路吹雪とともにその後三年もつづいた番組である。
この森繁の退座するころから漸くストリップショウの攻勢が盛んとなり、一座もグラついてきたがその間隙をついて「帝都座ショー」の秦豊吉が小附政房、水守三郎らを引連れて乗込んできた。秦はもともと政治面や社会面をショウ化することに異常な熱意を持っており、ムーランでも当時の新聞記事をその時の舞台に載せて面白い芝居を見せた。いわく共産党員の地下潜行、戦犯の巣嶋生活、チャタレイ裁判等々で、秦自身こんなものを「落首劇」と称していた。
当時の朝日新聞に、追放されて地下に潜った有名な共産党員と対面したニセ記事が出たことがあったが、この記事の会話がその偽セリフになって舞台に載せられた。最後に記者が「これからどこへいらっしゃる」と汎くと党はは地面を掻くような真似をして「地下にもぐるんだ」とやったのがおかしくて見物は爆笑した。「チャタレイ裁判」はムーランの外に帝劇でも上演されたが、秦はこういったことをさらに発展させて、やがて帝劇ミュージカルにおける「赤い絨氈」の上演を実現させることになる。
終戦直後、旧名ムーランを取返したのは台湾山身の林以文(リン・イブン)の力に依るものである。それまで第三国人の子から渋谷の東横デパート内の劇団に渡って使われていたのを林が十五万円で買戻したものであった。林はその後も何かにつけて一座を後探していたが、二十六年には遂に手を引き、ここにムーランは新喜劇二十年の生涯を閉じることになった。「チャタレイ裁判」のころに入座したのが三木のり平である。彼は日大芸術科の出身で、築地小劇場で初舞台を防んだこともある。
ムーランは創立以米、実に通算五百回の公演記録を持ち、またここで劇場生活をした人は八百
名に近い。その間多くの人材を舞台に映画に、してまた放送界に送り込んだことは注目さるべきであろう。
その後ムーラン再起の問題は長年の懸案となっていたが、漸く関係行の努力が実を結んで三十八年九月一日から新宿松竹文化演芸場に「劇団ムーラン」が旗揚げされた。代表者は斎藤豊吉であり、第一回の出し物は、
一 小鳥功原案(「週刊アサヒ芸能」連載漫画)、水守三郎脚色・小崎政房演出の「仙人部溶」
二 木村重夫作・演出の「僕の故郷は鍋ヶ崎」、
三 野末陣平構成「新秋コント集」
で、山演者は黒木憲三・久野四郎・並木瓶太郎・小川純・回烏辰夫・沌那保代・原秀子・黒井井茂・井出涼太・須美涉・中村陽子といった旧ムーランの残党に新人を補強した顔触れだった。各方面からの期待に応えて楓爽たるスタートを切った心算だったが、間もなくダレ気味になり、翌三十七年の二月に早くも解散してしまった。不振の原因は内的にも外的にも幾つか考えられるが、しかしここの舞台で、例えば井出涼太のような、正直にいって、それまでテレビではいぜい仕出しに毛の生えた程度の役しか貰っていなかった若い俳優が立派に主役を演じて新しい境地を見せてくれたことなど、一つの大きな収獲であったと思う。
軽演劇とは何か?
「軽演劇」をただ読んで字のごとく軽い演劇――すなわち上演時聞が短かく、舞台装置も簡便で、全体の演出効果も重厚さを避けた格快な感じのもの――と訳せば、その範疇は極めて広いものとなる。そしてそのような形式のものはわが国にも従来からあった筈である。しかし専門書時点の類をひもといてみるとそのいずれもが多少の差はあれカジノから笑の王国、ムーランルージュ、およびその流れを汲むレピュー式喜劇の類を指して「軽演劇」といっている。少なくとも日本伝来のものではない。歌舞伎や能狂言などは、それが一幕物であっても軽演劇とはいわないのだ。カジノは前にも述べたごとく曾我廼家喜劇における俄のごとき伝統を持たない。主な素材としてはレビュー、ジャス、ボードピル、それに当時流行ったマック・セネット映画におけるギャグであった。マック・セネットはアメリカ最初の短篇喜劇のスタイルを創造した功績者である。彼は最初グリフィス監督の下で役者として働いていたが、一九一二年にキイストン社を設立、ここがいわゆるキイストン喜劇発祥の地となった。
彼のスラップスティックコメディはポードピルなどのギャグを映画に生かし、これにコマ落しやコマ止めを初めとする色々なカメラのメカニズムによるトリックを用いて現実には作り得ないような出鱈目なギャグを発明した。人物の動作もすべてナンセンスでスピーディーであり、バナナの皮を踏んで滑ったり、街中の人たちが互いにパイを顔にぶつけ合ったり、自動車が猛烈なスピードで建物をぶち破って走っても乗っている人は平気だったり――といったようなギャグを考案して一九一三年から一六年頃にかけて黄金時代を築き上げた。また海水着美人を多数登場させたことでも有名である。セネット喜劇からはマック・スウイン、チェスター・コンクリン、ベン・タービンなど幾多の喜劇俳優が輩出した。チャップリンやハリイ・ランドンもまたキイストンの門下である。
このスラップスティックという言葉は通常ドタパタあるいはアチ
ャラカというように解釈されているが、これが軽演劇における最も重要な骨子となっている。ところでこのアチャラカは古川緑波の言によれば、最初は西欧流、すなわちモダン・ハイカラを意味する「アチラ」という言葉だったのがいつの間にか転化したものであるという。「アチラ」が「アチャラ」となり、西洋風がアチャラ風、あるいはアチャラ帰りなどといった要領で、バタ臭い喜歌劇などによく「アチャラカそう」などといい出したのが始まりで、その後次第にドタパタのギャグを意味する言葉に変っていったらしい。この「アチャラカ」なる肴紋を最初に掲げたのは後記「笑の王国」である。
ここで「軽」という字について少々考えてみよう。われわれの日常生活周辺に「軽」のつくものは多い。現代文化は終文化だといわれるゆえんである。その主なるものに軽音楽がある。軽食喫茶などという看板もよく見かける。軽工業(製品重量一トン以下のもの)、軽機関銃(重量十キロ程度のもの)もそうだ。軽文学というのもあったが、これはいつの間にか中間小説という言葉に変った。また最近はビール、サイダー、ジュースなどを意味する軽飲料という言葉も出来た。かく「軽」の字のつく物を並べてみると、われわれはまず一連のことに気が付く。すなわちそれはすべて西欧的なものであって(軽文学にはときどきマゲ物があるが)、少なくとも日本的もしくは東洋的なものではない。凶欧的であるということは、わが国においては殊に近代的であることを意味する。社会生活の近代化とは、一般的にいえば封建社会から資本主義社会への移行ということだが、わが国においてはそれが社会生活の凶欧化という面においてとらえられる。
序でながら軽音楽というのは大東亜戦争中に出来た言葉である。当時ジャズは敵性音業であるという理由で当局から徹氏的に弾圧され、従ってジャズという言葉は禁句となっていた。そこでジャズの代りに軽音楽という名称を考え出した者がいた。その後この軽音楽が拡張解釈されて、ジャズのみでなくポピムラー・ミュージック一般の類を指していうようになったことは周知の事実である。(戦後”ジャズ”という言葉が復活した頃は、筆者の記憶によれば、軽音楽とは主として桜井潔や吉野章らの楽団が演奏するコンチネンタル系のタンゴやルンバなどを指し、ジャズやハワイアン、純ポルテニヤ系の曲目とは一線を画していたように思う)この軽音楽もさらに広義にとれば、オペラの序曲や間奏曲、J・シュトラウスやワルトトイヘルの円舞曲、また器楽のソロによる、いわゆる小曲などもこの範疇に入るだろう。ただいえるのは、日本の俗曲や民謡、琴や三味線によるいわゆる「邦楽」は絶対に軽音楽とは呼ばれないことである。「軽食」という場合にも、それは通常カレーライスやチキンライスやサンドイッチを意味し、天井や鰻井やあるいはうどん、ソパなどを指さない。軽飲料もまた同様である。これは私見だが、日本人は本来西洋人に比較して何事にも軽・重の観念がハッキリしていないように思う。例えばスポーツでも、ボクシングやレスリングやウエイトリフティングではフライ、ハンタム、フェザー……といった具合に、体重による階級がやかましいが、相撲などでは遥かに体重の異なった者同志を闘わせて一向に憚らない。
軽演劇という用語が公けに使われたのは昭和七年の都新聞(現東京新聞)演芸欄で、現在同社のい編成局長土方正己氏がエノケン一座の芝居評について用いたものだ。当時は満州事変を初め、日本としては徐々に軍需体制に入りつつあったときで「重工業」という活字が盛んに使われたが、これに対する「軽工業」から思い付いたものだという。以前からあった曾我廼家喜劇・剣劇・女剣劇は含まず、専らアチャラカ喜劇、変格パロディの類を指したものであった。先にも述べたごとくカジノはレビュー、ボードピル、ジャズそれにマックセネット映画のドタパタ手法を用いて全く新しい形の演劇を生んだ。そしてこれが後のムーラン・ルージュ、笑の王国などを経てさらに今日のミュージカルとよばれるものに連なっているのであるが、この一連のものを軽演劇とよぶことが最も妥当であると考える。
しかし、軽演劇なる言葉の由来については他に説がある。昭和三、四年ごろにサトウ・ロヴノローが浅草の江川大感館に出演したときすでに軽演劇なる看板を掲げていたというものである。ま
た戦時中、NHKでやっていたラジオ香組の中で軽演劇というのがあって、十分から十五分程度のごく短いコントを放送していたが、これはラジオ・コメディから由来したもので、後に短編劇という名称に変ったという。これは舞台における軽演劇がラジオに流れ込んだものと思われるし、また前記ロクローの軽演劇にしてもその内容はかなりモダンなアチャラカ喜劇であったそうだから、いずれにしても軽演劇本来の意味を損うものではない。英語のライト・オペラ、ライト・コメディから由来したものだという説もあるが、詳しいことは判らない。
いささか回りくどいいい方で申訳けないが以上で大体「軽演劇」というものの概念を述べたつもりである。つまり軽演劇とは上演時間の短かさや規僕の小ささを表わすものではなく、あくまでもその手法をいうものである。これは音楽においても、演奏時間の長短や演奏者の多少によって「純」とか「軽」とかの区別がつけられないのと全く同じである。
戦後出現したストリップ・ショウはあくまでもヌードの踊りのみに重点を置いて考えればそれは演劇とはいい難い。しかし一定のテーマを持たせて筋を組み、科白などを入れて全体をドラマティックに仕立てることによりその多くは軽演劇の範疇に入ってくる。それは踊り以外の、すなわち之居の部分が軽演劇の手法によるものだからである。
ところで軽演劇なるものが様々の伏線を持ちながら極く最近になって生れて米たということは重大な意味を持っている。ひとり軽演劇のみならず一体に大衆演劇とよばれているものの胎動は、大衆の社会における地位の向上、いうなれば大衆社会の発展と密接に結び付いているのであるが、「一般大衆の気質はまず流行歌に現われ、軽演劇に現われる。」という言葉を待つまでもなく、軽演劇は殊にそのときの社会情勢を最もよく反映しつつ大衆とともに育成されてきたのである。
剣劇
新国劇を創立した沢田正二郎は、従来に見られなかった写実的な殺陣をみせて評判となったが、そのくせ観客や批評家から「沢正」とか「剣戟」とかいわれることを非常に嫌った。彼の迫真的な立回りを見て熱狂した観客が「剣戟の神様ァ」とか「イョウ沢正!日本一」とかいったような掛け声を飛ばす。沢田は楽屋ヘ入って来るなり苦虫を噛みつぶしたような顔で「駄目だ。まだ客は俺の立回りばかり見て芝居の方は見てくれていない。」そして側の金弁護之助に向って「金井君、今夜ハネてから稽古のやり直しをしよう。」といったという。その沢田の唱えた「半歩前進主義」は、大衆と握手することは必要だが、それは大衆におもねることではなくして、大衆とともに進み、常に大衆をその水準から引上げようという意気を示したものであることは周知の事実だが、そのような意味で「剣戟」とよばれることや思惑遠いの人気に抵抗を感じたであろうことは想像するまでもない。剣劇は、この新国劇の立回りの魅力のみを素材として出発したものであるから、いわば当初から観衆におもねる意識があったともいえる。
ともかく剣劇の最初の人材は新劇から出た。すなわち、大正八年の十一月に名古屋末広座で、行友李風の「固定忠治」を上演中、中田正造・小川隆・伊川八郎・小笠原茂夫ら幹部役者の発起による一座分裂の企てが露見、四名の自責脱退となった。退座した中田らは間もなく「新声劇」なる剣劇団を組織、主として京阪神一帯で活動を始め、また屡々上京もした。この新声劇が道頓堀の角座ヘかかったとき、折しも中座に出演中の先代脈雁治郎が評判を聞いてコッソリ見物に来たという。
新声劇からは後に伊川と小川が抜けて別に一座を作った。この伊川らの「国精劇」は特に関西方面で新声劇と張合っていた。そのほか明石潮・酒井淳之助・山口俊雄・辻野良一・河部五郎といった面々もこの新声劇の出身である。山口は井上正夫門下より新声劇ヘ参じたものだが、のち役の上から中田とケンカになり、別に新潮座を旗揚げした。
震災後の新国劇からは、さらに金弁護之助・田中介二らが脱退、新派の加藤精一・佐々木積・林幹・岡田嘉子・夏川静枝らの舞台協会と結んで、大正十三年に同志座を創立したが永続きしなかった。
果せるかな剣劇は各地に絶大な反響をよぴ、殊に大震災後になるといろいろな剣劇団が簇生した。大正十四年から翌十五年にかけては剣劇全盛期とも称すべきで、主として浅草六区を中心として隆盛その極に達した。
十四年の浅草では先ず明石潮が観音劇場で立回りを始め、伊川と別れた小川隆が常盤座に打って出、また「遠山満とその一党」に続いて、これまた新声劇から出た酒井淳之助が元新派の柴田善太郎と「剣劇文芸団」を旗揚げして公閣劇場に拠る――という慌しい剣劇攻勢を迎えた。それまで「浅草の猛将」といわれた沢村約子、公闘随一の人気者だった伝次郎、さては民衆劇を志して「春秋座」を興した猿之助・八百蔵兄弟といった面々もこの剣劇プームには抗し難く、いずれもお手あげの有様だった。
その他の主な剣劇団としては剣星劇・日吉良太郎一座・新光劇聯盟・伊村義雄一座・筒井徳二郎一路・第二新国劇・鈴声劇・近江二郎一座などがあったが、いずれも離合集散、提携袂別がはなはだしかった。
大正十五年正月の浅草における各剣劇団公演の模様を見るに、
観音劇場――小川隆・田中介二提携のもとに新組織した「純国劇一派」。田中とともに新国劇を脱退した二条昌子、新派や喜劇にもいた音地竹子・藤田キン子・以前から小川一派の幹部だった久保春二、喜劇出身の樋口十兵衛などが共演。出し物は「め組の喧嘩」、「好漢近藤勇」などで、序でながら木戸銭は庫席一円、立見が五十銭だった。
凌雲座――「剣星劇」。”東西新劇界の若手花形を網羅せる日本随一の大剣劇”と銘打ち、新派から瀬戸日出夫・小栗武雄・元安盤、新声劇や国精劇の落武者に加えて元新国劇の大山秦、喜劇春秋座から田村稔らが出演している。出し物は「薩英戦争実記」、「兵児の歌」など。
千歳座――「日吉良太郎一座」で「軍神乃木将軍」、「侠斗の乱刃」など。
なおこのとき、神田劇場では遠山満とその一党が幕末史劇「反逆時代」、風刺劇「牛を尋ねる男」、剣侠劇「清水次郎長」をやり、麻布末広座では明石潮の「国純劇」、水野好美が「新光劇聯盟」をひきいてやはりチャンパラを見せている。が、間もなく遠山一党は公園劇場ヘ、明石は常椴座へと来るに及んで、この年の浅草は金竜館の「喜劇春秋座」、江川大盛館の安定筋、そして世界館の五一郎一座を除けば、どこも剣劇一色に塗りつぶされるという有様だった。終戦後一時浅草にストリップの全盛期があったが、この震災復興後の剣劇プームと全く似たようなケースだった。やがて昭和に入るとさしもの剣劇も下火になり、群小劇団は淘汰されて消え去ったが、この最流行期から-寸遅れて出発し、そして確実な人気をかち得たのが梅沢昇と金井修である。
ところで「剣劇」なる用語の由来については次のような説がある。
「大体剣劇という一言葉が出来たのは大正末期で、浅草の常盤座で明石・問中・小川の三店合同したときに、太夫一応の木内末吉が『剣劇三派合同』と林したのが最初だろう。」(保氏浅之助「女剣劇」”よみうり演芸館”夕刊読売新聞・昭和三十三年一月二十一日)
また徳田純宏氏の記事によれば、浅草で全盛時代の田中介二らが客を惹くため二、三の人と作った名称であるという田中自身の弁による説、それから嘗て岩本某なるペンネームをもって浅草の興行師堀倉吉の下で文芸部員として務め、後に日本特殊鉛工業の常務となった糸川東洋男氏が当時小川隆らとともにやはり客寄せのため立回りの芝居に剣劇団と名付けたという説、いま一つは徳出氏自身の説で、大阪の弁天座あたりで、ある宣伝部員がキャッチフレーズに「剣戟の響き」と書くのを誤って「剣劇」と書いたのがはからずも受けて、以後「剣劇」なる名称が使われるようになったというものである。〈「剣劇まんだん」「演劇界」昭和二十九年四月号〉
※筆者の所有している大正十四年十一月興行の観音劇場パンフレットには「明石・問中・小川剣劇三派合同第一回興行」と書いである。もっともこの「第一回」は「剣劇」の第一回という意味ではない。同年の「演芸画報」の記事などから察するに「剣劇」なる用語の出来たのは新国劇から金井(謹)と田中が脱退した後、すなわち大正十三年から十四年までの問のことと思われる。
ところでこのような剣劇降盛に関して次のような記事があるから紹介しておこう。高沢初風「剣劇めぐり」(「演芸嗣報」・大正十五年二月号)に出てくる一老歌舞伎俳優‐氏名は明らかにしていない‐の談である。
「恐ろしい世の中になったもんですな。あっしどもの若い時分には、役者が舞台で立回りの刀を受け損じて怪我をしたとか、花道から客席ヘ転げ落ちたとかしたら、これは役者の恥だといって翌日から仲間に顔向けも出来ず、芝居を休んだものです。それがどうでせう、この頃の何とか団とか何とか劇とかいふものは怪我をしたり転げ落ちたりするのを恥ではなく熱心の余りの名誉だといっています。どうも時世とは申しながら恐ろしいもんですな。(略)私も商売のことですから一度は見ておかなければとそっと覗いて歩きましたがどうも驚きましたな、いやにシャチょこばってサア来いウムと抜身を一振りすると、丸でスルメを焼いたように体をそらしてパタパタと倒れるのです。それが僅か三分の間に二十何人といふ相手を一人で殺したのですから驚かずにはいられません。(略)それから次の幕になると、浪士たちが寄合って、何か相談をしているところですが、これがまたどれを見ても肩肘をいゃに怒らしてときどき妙な稔り声を出すのです。てんで芸といふものではありませんな。」
この言葉の中には新興の強敵に対する憎悪と嫉妬以外の何物をも認められない。あたかも源氏の田舎侍に対する平家の落武者を感じさせるものがある。かと思えば一方、例えば大正十五年の公園劇場における遠山満に対して政界の頭山満から「雄剣光如氷」と大書した引幕が贈られ、またこれと合同していた近江二郎・酒井淳之助には菊五郎・吉右衛門からそれぞれ大入り袋を贈らるといった情景も見られた。
かように剣劇は伝統ある歌舞伎まで圧倒するにいたったが、この剣劇降盛によって最も被害蒙ったのは地方回りの新派だったといわれる。
梅沢昇は九州の出身だが、幼いときから自活して苦労の絶え間がなく、ドサ回りを振り出しに孜々営々の幾年をおくつた。昭和十六年、浅草の公園劇場で「ご本万土俵入り」(長谷川伸作)をやったとき、茂兵衛に扮した梅沢が演ずる空きっ腹の場面が真に迫っていたのも、十三才のとき三日も食わずにいた苦労、その体験を生かしたものだった。
東上して浅草の昭和座へ出たのは昭和六月である。比較的早く人気を得た彼は「狼之助口手拭」・「月夜野大八」・「月の素浪人」など、長谷川仲から書下しの本をもらって公園、俗に梅沢芝居と呼ばれた確実な演技とあいまって、その人気を不動のものにした。原厳・村上元三といった面々が文芸部にいた。金子洋文の書下しや、また、北条秀司・北村喜八の現代物なども手がけている。
梅沢は元米が怒声で(二代日も同様)柄も余り良くなく、舞台人としては得なガとはいえなかったが、それを脚本で埋め合せをしたようなところがあった。その甲斐あって、一部の人からは芝居がクサイといわれながらも、忽ちにスターの座へのし上ったが、好事魔多しで一座の中に待遇改善の動きが高まり、それがもとで数人の脱退者を出し、以後次第に衰えを見せ始めた。その後梅沢は一座の河井勇二郎に二代目を襲名させ、自らは竜峯と名乗った。昭和十九年のことである。終戦後は余りパッとした動きは見せず、昭和二七年頃に浅草の花月劇場で「伊那の勘太郎疾風道中」など演じたのを筆者は見たが、その後花月は映画館になり、梅沢も東京から姿を消した。都落ちした梅沢は横浜の弘明寺町に梅沢劇場を建てて奮戦したが遂に時勢波には勝てず、三十一年の二月長谷川伸の「勘太郎月の唄」を最後の舞台として一座を解散した。
金井修は初め神戸の三の宮の歌舞伎座から新開地の港座あたりで一座をなしていたが、梅沢より丁度二年ほど遅れて上京、昭和座ヘ出た。その後本所の寿座などを経て昭和一三年あたりから公園劇場ヘ出るようになったが梅沢よりももっと覇気のある殺陣がそノをいって戦争前の一時期を飾った。十四年頃には大江美智子〈現二代目〉と剣劇団としては始めて国際劇場の舞台に上り合同公演を行った。十三年頃から、戦争が激しくなる前の十七・八年あたりまで、松竹販の不二洋子に公園劇場の金井と互に蹴酬を競っていたがこの頃が最も充実した時期であったといえる。十八年に不二が他所ヘ行った隙に松竹座ヘ進出、三門博を使って「唄入り観音経」を演じ、好評を博した。大東亜戦争が激しくなりやがて終戦を迎えるとともに占領軍からの弾圧で剣劇はご法度となった。二十一年の二月に常盤座ヘ出たときは「刀を捨てた」という意味で「剣を越えて」(小沢不二夫作)なる現代劇を上演したがこの頃からあらためて現代劇への転向を図った。もっとも戦争前からすでに彼は現代物を随分手掛けていた。そのころの座付作者には鳥栄光がいて「唖の剣法」などの傑作を書いたが、そのほか子母沢寛や佐々木憲の作品も多くやっている。戦後は一時花月劇場などへも出演したが、花月が映画館に転じたため、やはり梅沢同様に浅草を追われることとなった。
一座解散後はしばらく脾肉の嘆をかこっていた金井も、最近ではテレビに活路を見出すようになり、かなり忙しい毎日を送っている。やはり年期というものだろうか、一向に衰えを見せない剣の冴えは流石である。
レビュー、ショー時代来たる‐松竹楽劇団
昭和十三年、帝劇を本拠に、松竹洋画系専門のアトラクション団として「松竹楽劇団」が旗揚げされた。これは日劇を初めとする東宝の丸の内攻勢と当時各映画館で流行したアトラクションに対応して、松竹の大谷博や蒲生重右衛門が立役となって作られたもので、東宝SSKから天草みどり・春野八重子・荒川乙女ら、OSKから小月秋月、それに中川三郎・荒木陽・リズム・ボーイズなどが参加した。ここで新たに編成された男女混声コーラスは、宝塚や松竹の歌劇団では見られなかったものだ。楽長は紙恭輔で、その助手として服部良一が編曲兼代理指揮者を受持っていた。紙は同年の九月に楽劇団を詳したが、この紙に稽古のあといつまでも残っていろいろなことを根掘り葉掘り訊いたり、オーケストラの練習をしていると、すぐ後に立って紙の動きを真似したりしてうるさがられた娘がいた。これが笠置シヅ子(当時三笠静子〉で、紙が服部と斎藤広義に後を任せて辞めたのち、その服部と組んで「ラッパと娘」、「センチメンタル・ダイナ」などを歌って売出した。このコンビも戦後の「東京プギ」、「へイヘイプギ」まで至っているのだから思えば長いものだ。
楽劇団の第一回公演は四月二十八日で、その後宮川はるみ・石上都・長門美千代が新たに迎えられ、またベテイ稲田なども出演した。また最初は次郎冠者の益田定信が脚本演出のみでなく、衣裳・装置までも相当していたが、第六回あたりからスタッフに大分の変更を見た。構成脚色に南部圭之助、振付に青山圭男、衣裳・装置に伊藤竜男・井部岐四郎がそれぞれ入った。しかしそのころにはすでに次郎冠者によって楽劇団の色調、スタイルといったものが一応確立されていた。昭和十三年といえば軍国絢がはなやかになってきたころで、レピュウに対する加弾圧もそろそろ始まってきていたが、それを知ってか知らずか敵性のカナ文字タイトルを常に使った。「ら・ぼんば」、「スイート・ライフ」、「トーキー・アルバム」といったカナ書きの出し物は
この劇団の一つの特徴だった。しかしやはり時勢には勝てず 「南国の情熱の踊り」のあとで「愛国行進曲」を唄ってチョッピリ「時局を認識した」ところを見せたりした。
九月には大町竜夫が新たに入団、文芸陣を強化した。大町の入団第一作は翌十四年二月十六日初日の「シンギング・ファミリー」で、これにはミミー宵嶋が特別出演した。
この楽劇団の特色は、スイングものを主体としたミュージック・ショウにあり、それには服部良一のホット・ミュージックに対する情熱と、それを日本人離れのしたフィーリングで表現した、笠置シヅ子のカが大きくものをいっていた。
こういった特色は無論服部が音楽担当者として実権を握るようになってから次第に表われてきたもので、アメリカものの新曲をフンダンに演奏すると同時に服部自身のオリジナルをも数多く発表、また十四年の四月二十七日より公演の「カレッジ・スイング」(大町竜夫作〉あたりからサックス、バイオリンなどを増加して楽団の充実をはかったりした。
つづいて服部は五月十一日から一週間、新編成によるバンドに符川はるみ・手塚久子の歌手を加えて「松竹スイング丸処女航海」一景を浅草大勝館で公演、ジャズファンに多大の期待を抱かせたが、次で六月八日から一件び情劇ヘ出て大町竜夫の「ホット・ジャズ」五景を上演した。歌手陣としては春野八重子・リズムボーイズのほかに荒川乙女・雲井みね子・志摩佐代子・波多喜美子の四人で編成したヤンチャ・ガiルズ、それに十四年の三月から、前記の手塚久子〈東日音楽コンクール首位入賞〉、イタリーのオペラを研究したテナー湯山光三郎が加入したが、やはり何といってもピカ一は笠置で、この「ホット・ジャズ」で唄った「ホエア・ザ・レジイ・リバー・ゴーズ・パイ」などは当時わが国でも十人余りの人によって唄われたものだが、フィーリングのみにおいても断然他の追従を許さなかった。
つづいて六月十五日からの「ジャズ・スタア」(大町竜夫演出)ではさらに趣向を変えて大きな舞台を組み、そこにバンドを一杯に飾り、このバンドを中心に歌や踊りを配するといった構成法をとった。しかしこれもやはり笠置の一人舞台で、最初の「アレキサンダース・ラグタイム・パンド」からフィナーレの「スイング・スイング・スイング」に至るまで全十二曲のうち四曲を唄いまくった。
楽劇団側としては、ヤンチャガールズの売出しを狙っていたのだが、芸が未完成なのに加えて振付けの不味さなどがたたり、客受けはあまり良くなかった。
結局、松竹楽劇団の最大の欠陥は人材の不足にあったといえるが、しかし服部がここの舞台を根城に作家の大町や歌手の笠置の力を得てジャズのステージ化に尽した功績は大きい。十五年に帝劇が東宝の経営に移るや、楽劇団は丸の内松竹(後のピカデリー)に移動したが笠十六年に解消した。
レビュー、ショー時代来たる‐宝塚
明治中期までの宝塚一帯は名もない、さびれた小村に過ぎず、明治二十五年に武庫川岸の鉱泉をひいて旧温泉が造れたが、阪鶴鉄道(現福池山線)と箕面有馬電鉄(現阪急)の開通により漸く発展の兆を見せ始めた。箕面有馬電鉄はさらに乗客の増加をはかるため小林一三の発案で遊覧地を造ることを計画、武庫川東岸の埋立地を買取り、近代的な大理石造りの温泉大浴場と家族組泉を新設、宝塚新温泉と名付けて明示四十四年五月一日開場した。しかしこの日本最初の温泉室内プールは男女混浴の不許可などで失敗、湯を抜いてしまった。そこでこの大きな水泳場を利用して余興場にすることにし、その頃大阪三越でやっていた少年音楽隊(オペラの田谷カ三もこの少年品目栄隊の出身である。)にヒントを得て宝嫁唄歌隊なるのもができた。これが大正二年の七月で、高峰妙子・雄鳥艶来・外山咲子・由良道子ら十五名が採用されて発足した。その内、唄歌を唄うだけでなく、帝劇でやっている歌劇と似たようなものをやろうという話が起こり、滝川末子ら第二期生を加え、唄歌隊の名称を廃し、宝塚少女歌劇養成所と改称、基本的な演技を全般に渡って学ぶことになった。九ヵ月の養成を済ませた彼女等は、室内プールに板を張って客席とし、脱衣場を舞台に改造した「パラダイス劇場」において第一回公演を行った。出しものは、北村季晴作・歌劇「ドンプラコ」、本店長世作・喜歌劇「浮れ達磨」、宝塚少女歌劇団作ダンス「胡蝶の舞」の三本立てであった。このように、最初はいわば浴客を対象としたアトラクション的存在であったが、大正三年の十二月に初めて北浜帝国座ヘ大阪毎日新聞社主催の慈善歌劇会に出演したのを皮切りに、道頓堀・浪花座、神戸・聚楽館等ヘしばしば出張公演するに及んだ。東京での初舞台は大正七年五月(帝劇)で、出し物は「雛まつり」、「三人猟師」、「ゴザムの市民」などであったが、これが予期以上の好評で、当時いささか不調気味だった帝劇の舞台(新劇・歌劇)に新風を吹き入れた。
その後公演毎に次第に観客の増加を見たので、新たに新歌劇場を設立、また生従たちも月組・花組に分れて公演したが、大正十三年七月、かねて小林一三の念願であった宝塚大劇場が竣工するに及んでさらに雪組が加わった。因みに星組は昭和八年の七月に発足している。
いわゆる「男装の麗人」に人気の集まり出したのは大正末期からで、その頃のスターとしては篠原浅茅・春日花子・奈良美也子などがいた。当時男役はいかなる場面でも必らずといっていいほど鳥打惰を被っていたが、これは長い髪をかくすためのもので、当時はまだ断髪など流行らなかった時代だから、男役といっても毛を短かくするわけにはいかなかったのである。因みに、レビューの男役が髪を短かくしたのは松竹の方が早く、水の江滝子が昭和五年に断髪にしている。
宝塚が、いわゆる「レビュー」の形態を本格的なものにしたのは「モン・パリ」であった。ひとり宝塚のみでなく日本のレビューはこの「モン・パリ」によって一つの典型を与えられたのである。これは教師の岸田辰弥が欧米旅行より帰朝したお土産興行として昭和二年の九月に上演したもので、「レビュー」という言葉が初めて使われたのもこのときであった。この「モン・パリ」は未曾有の大成功を収め、二ヵ月という宝塚最初の長期公演の記録を作ったが、その後「ハレムの宮殿」、「シンデレラ」等のレビューを上演、さらに五月八日にはこれまた欧米巡学より帰朝した白井鉄造の「パリゼット」を発表した。これは全十八景、白井帰朝以来の傑作とうたわれたもので、さらにこれを少し改訂した「ネオ・パリゼット」というのもある。この外白井の代表的な作品として「花詩集」、「トウランドット姫」などがあげられるだろう。
大正十二年の関東大震災によって東京公演は瞥らく中止されていたが、十四年からは再び進出をはじめ、市村座・邦楽座・歌舞伎座・新橋演舞場などで年三回ほどの公演を行っていた。しかし本格的な東京進出を目論んだ小林一三は、昭和九年の一月に東京宝塚劇場を落成させ、以後十九年三月の高級享楽停止令による閉鎖までレビューを上演した。この頃までの作者としては前記の外に久松一声・中西武夫・東郷静男・宇津秀男・堀正旗・岡田忠吉・東信一・加藤忠松・高木四郎などが活躍した。昭和九年七月の中西武夫作「憂愁夫人」など従来の宝塚調にドラマ性を与えたという意味で注目される。
昭和二十一年に再開した宝塚は間もなく戦前の華やかさを取戻したが、新開拓といったものはあまり見られなかった。しかしそれまで白井・岸田を初め、前記のようないわば座付作家のもののみを手掛けていたのが、「新風を入れるため」外部の作家のものをも公演することになった。二十七年三月の菊田一夫「猿飛佐助」の他「ジャワの踊り子」、「ひめゆりの塔」、執行正俊「ホフマン物語」、「ヤマサローサ」、侮田晴夫「巴虫の騎士」等がそれである。
月・雪・花・星の四組はそれぞれ特徴があるとされている。すなわち月組は踊りに強くて男役スターが育ちやすく、花組は歌がよく、美人が多い。雪組は演技派、また星組は若々しく健康的なところが魅力という。
益田太郎冠者と帝劇喜劇
「今日は帝劇、明日は三越……」のたとえ文句にもあるごとく、今でこそ「大衆」が出入りしている帝国劇場やデパートも、昔は上流階級の独点場だった。その帝劇は明治十四年、三月四日に開場したが、そこで上演された益田太郎冠者の音楽喜劇は、新味あるものとして異彩を放った。ブルジョア階級を相手に出したものをこの本で紹介するのは少々妙な感がしないでもないが、後の浅草オペラや昭和の軽演劇、あるいはミュージカル等にその手法は少なからず承継されていると考えるので、あえて触れることにした。
太郎冠者は本名太郎、明治八年男爵益田考の長男として生まれ、慶応義塾卒業後実業界に入り、大正九年現在、 台湾製糖・南国産業の業務を始め、台湾肥料・千代田火災、大日本人造肥料、万年生命の各取締役、日本煉瓦・氷妻硫黃、小田原紡績の各監査役を兼ね務めていた。勿論帝国の重液でもあった。そのかたわら多くの作品を書いていたということは、やはり稀にみる才人とい
わねばならない。大正九年までに帝劇で上演された彼の喜劇は次の通りである。
明示四十四年五月「ふた商」九月「心機一転」
四十五年五月「渡辺」六月「出来ない相談」七月「三太郎」
大正二年五月「生器襲来」十一月「女天下」
三年一月「かねに恨」七月「瓜二つ」十月「叫旅行」
四年五月「女優風情」イ一月「執心の鬼」
五年七月「三つの心」
六年五月「ドッチャダンネ」
七年五月「附の世の中」
八年一月「難病デレテリア」
九年二月「ガラカテ」
これらのファースでは、当時には珍らしい西洋的なハイカラなギャグや洋楽による劇中歌が使われており、優れた社会調刺も少なからず盛られている。これらの新作喜劇を演じたのは帝劇専属俳優の六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、七代目沢村宗十郎・初代沢村宗之助、四代目尾上松助(以上幹部〉、六代田沢村長十郎・八代目納子・森律子・村田嘉久子・初瀬浪子・河村菊枝らであった。森を初めとする専属女優たちは一つの名物となり、いわゆる「女優劇」は帝劇の重要な興行品目の一つであった。
明治問十内年六月号の演芸画報に鳥居清忠が批評を書いている。
「ふた面。作意が益問さん式で擦りの多いのには閉口、髪の抜けるのや軍人の未亡人の抜刀騒ぎはあらずもがなと思ひました。(略)これは当人の罪でなく、作意の放でせう。」
このような批判は終始彼の作品に付きまとっていたらしく、「帝劇十年史」にも次のことき弁解じみた記事が見える。
「或は氏を眨して曰く「畢竟落語めきたる茶番狂言の作品のみ」と。由来他人の長を認むるに吝かなるは邦人の通弊也。借問す、現代日本に氏以上の喜劇作者ありやと。而して近来氏が悲劇物に指を染めたるは人の知る所の如し。沙翁の言ヘるが如し、”完全なる悲劇作家は先づ喜劇に立脚せよるべからず”とせば、益田氏の今後の作品は大いに刑目すべし。」
彼はまた新作落語の作者としても知られているが、この落語趣味が彼の作品を貫いていたことはいうまでもない。しかし同時に、その特色あるモダニズムも見逃してはならないと思う。
彼の作品は、明治・大正・昭和の三代にわたって主として帝劇で上演されているが(帝劇以外では麻布南座など)、喜劇ばかりでなくメロドラマ・悲劇・探偵劇・古典劇・社会劇などと銘打った作品も多い。また「高速度喜劇」と称する寸劇も書いている。そしてこの場合は特にセレリタスというペンネームを用いている。
大正十五には「芝居と実地」(高助・宏之助・浪子)、「大正の幽霊」(田之助・律子)、「列車の怪」(高助・宗十郎・勝代)等の高速度喜劇を上演したが、これに先立ち、高速度喜劇にふさわしく、律子を使って早口の口上〈六六五文字を五十秒以内に読む)を云わせているのも面白い。
一例として、昭和二年に上演した短篇喜劇「支那限鋭」〈寿美蔵・浪子・律子〉の梗概を紹介しておこう。
場所はロンドンの一家庭。人物は金持の夫婦と一人の女中で、この家に、掛ければ相手のかくしごとがたちどころに透視出来るというシナ渡米の魔法の眼鏡が登場する。折しも女中がこの眼鏡によって夫婦のそれぞれから、つまみ喰いや男と逢引きしたことなどを見付けられてグビを宣告されるが、逆に女中がこの眼鏡をかけると夫婦のそれぞれが浮気をしていることがわかる。そこで女中は二人から口問め料を貰い、クピもつながってメデタシメデタシとなる。――
「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という「コロッケの歌」は大正三年講演の「啞の旅行」の主題歌だが、これが後の浅草オペラヘ流れていったのを初めとして、モダンなギャグの数々が昭和におけるアチャラカ軽演劇の大きな要素となっている。現画壇の重鎮益田義信氏が彼の御曹子であることは知る人も多いだろう。
退座していったので次第に衰退、その中にあって僅かに谷崎歳子(江利チエミの母親)が孤軍奮闘していた。
田谷力三の当時の人気といえばそれは物凄いばかりで、東京中の女宇生が彼のブロマイドを教科書に挟んでいたといわれるくらいである。田谷は戦後の今日でもときどきラジオやテレビなどに出演したり、浅草あたりのキャバレーで唄ったりしているが、いまなおカクシャクとした美声で人々を驚かせている。
このほか田谷に限らずオペラのスターにはそれぞれ熱狂的なファンがいて、ひいきの役者が出てくると客席からの掛戸と拍手で館内は割れんばかりだった。こういう熱心なファンをぺラゴロと称したが、これはオペラのごろつきという意味ではなく、オペラのペラとフランス語のジゴロ‐gigoloを合わせたものだ。もっともジゴロという言葉も「売春婦のヒモ」という意味であるから、決していい呼び名ではないのである。が、それはともかくとして、この一世を風靡した浅草オペラも、やがて大正九年の株式大暴落による不況、統いて十二年の関東大震災による影響などで急激に凋落していった。
これらのオペラは結局、唄や踊りなどを通じて洋楽や西欧劇を消化するに極めて大きな役割を果した。この浅草オペラの経験をもった人々がやがて昭和における新感覚のレビュー式喜劇を開拓していったのは当然の理である。
五九郎以前の日本喜劇
わが国の伝統的な演劇といえば歌舞伎であるが、明治から大正へかけて新しい演劇、すなわち新派・新国劇・曾我廼家劇が生れるに至った。
曾我廼家喜劇の創立者はいうもでもなぐ曾我廼家五郎・十郎の両人である。それまで巷間の一演芸に過ぎなかった大阪俄〈仁輸加)は、「喜劇」という名称を与えられ一大プームを作り上げた。わが国で「喜劇」という言葉を最狭義に用いれば(殊に関西では)それは曾我廼家系統の芝居を指す。無論、五郎・十郎がその旗揚げに際して初めて「喜劇」という名称を付けたからに外ならない。
この二人の事柄に関しては他に文献も沢山あるのでここでは触れないでおく。ただ注意すべきは二人とも歌舞伎俳優の出であったこと、従って俄をドラマに仕立てるについて当然歌舞伎的に処理したことであろう。
「ともかくも従来の大阪俄のやるようなくすぐりやワイセツな駄酒落は絶対的にやめまして、極めて自然な滑稽を眼目にしてそれに幾分でも近付きたい。それにいままでの俄は、女でも毛肢を出したり、子供といっても青髭のある大供であったりして、ヌッと出てくるとすぐ笑はすのを肝要としております。あれはいくら笑っても真におかしいから笑っているのではありません。私どもは女子供はやはり普通。そのシグサや台詞や第一、作の脚色に向然腹がよじれるやうな滑稽を含ませるやうに心掛けております」(”十郎の一言葉” 演芸画報・明治四十年十月号)
曾我廼家劇の成功にならって、その後続々と喜劇団と称するものが関西を中心に誕生し、花々しい競演を展開した。明治末期における主な喜劇団としては曾我廼家をはじめつぎのごときものがあった。「楽天会」・「瓢々会」・「桃李会」・「新旧合同」・「喜楽会」・「京阪会」・「笑声会」。(「瓢々会」のことを「瓢々会」と書く人もあるが、私の見た限りでは「瓢」の字を使ったX・献の方が稍多いので、とりあえず「瓢々会」としておく。〉
この他にもまだ群少劇団が多数存在していたが、いずれも雑魚で、前記のなかでも曾我廼家・楽天会・瓢々会以外は物になっていなかった。いわば旧俄から脱し切れ化い未発展の状態にあった。
序でながら当時活躍した人々(五郎・十郎は除く)を列記しておこう。五郎・十郎に倣って、やはり歌舞伎の曾我物に因んだ名が多い。
まず曾我廼家では――蝶六 本名中村熊五郎、明治十一年生れでもと鍛冶屋の主人。俄が好きで五郎・十郎の曾我廼家一賂結成に参終始名脇役として活躍し、軽い自然なおかしみの山る風格を持っていた。代表作「ヘちまの花」、「五兵衛と六兵衛」。昭和十二年歿。大磯 明治二十三年生れ。名古屋の出身で幼少の頃同地の市川団三ヘ入門。市川利均郎と名乗っていたが、後旅回りからやはり名古屋俳優の沢村四郎五郎の門人となり白十郎と称し、いわば鍛帳役者だったが明治四十二年に曾我廼家ヘ入り、蝶六と並んで一感の重鎮となった。芸質は軽妙、女形を主とし、五郎歿後は甥の二代目を助けていた。「つづれの錦」の小さんなどが当り役。昭和二十九年に亡くなったので若い人たちの中にも知っている人が多いだろう。月小夜 新派の俳優で黒田透といい、ドサ回りの下積みだったが曾我廼家ヘ入り立女形となる。時之祐 新派の山口定雄一座にいて浅川清といっていたが、山口の歿後は白川広一の門弟となって一座を支えていた。小四郎 もと綿屋の職人で旧俄では大山亭双六といった。
楽天会では――中島楽翁 前身は大阪の落語家で特おもちゃといい、廃業して最初曾我廼家ヘ入り箱王と称したが間もなく脱退、初代渋谷天外とともに明治三十八年、楽天会を組織。
渋谷天外 旧俄では鶴屋間十郎の弟子で団治といった。現松竹新喜劇の二代目天外の実父であることは衆知のところ。芸風は淡々、大阪俄風としては最後の人だったとされている。
粂回通天 東京の落語家から新派ヘ入り、粂田貞二郎といって高田実や伊井蓉峰の下回りをしていた人。後五九郎一席や喜劇春秋座などで活躍した。
田村楽太 金物屋の停で旧俄では鶴屋団校といった。
瓢々会では――時田下三郎 歌舞伎の嵐吉三郎の門弟で嵐問之助といい、のちに義三郎と改名したが旧派では門閥があってなかなか頭を拾げること戸出来ないと思い、喜劇に転向した。
高橋義雄 新派では古顔だったが、ふと喜劇を思い付き種々の喜劇団を経て瓢々会ヘ入る。太平楽・太平洋・深沢一派コメディーといった劇団では重鎮だった。
中西卜六 三笑亭可楽という大阪の落語家。声色が巧みで一時旧俄の鶴屋一派に入ったがとうてい物にならないと思い瓢々会ヘ入座。
桃李会では――正玉。本名中島芳太郎 宮内省の馬丁をしていたという変り種。
碁雪 新派山川身で剣舞にすぐれた人。その他好・いろは 阿人ともに曾我姐家より脱退。
新旧合同では曾我廼家一満 難波屋という紛介原の息子で、曾我廼家創立時代の幹部だったが不平で脱退した。
当時東京でも深沢恒造・服部谷川・嵐橘町などといった人たちが苦心して喜劇団を組織したがいずれもて二回の公演で失敗してまった。よってこの種の喜劇は明治から大正へかけてもっぱら関西で隆盛を誇った。
しかしこれらとても大正中期ヘ入ると自然陶汰されてきた。すなわち楽天会・喜楽会・瓢々会などいずれも首脳中堅を失つであるいは倒れ、あるいは衰微して地方ヘ姿を消していった。楽天会は大黒柱の中島楽翁・渋谷天外相次いで逝き消滅、喜楽会も道頓堀を追われて新世界にいたが問もなくドサ回りの身の上となった。依然として羽振りの良かったのは曾我廼家一派だけであった。ところがこの曾我廼家に次ぐものとして新たに志賀.姐家淡海の一時がのしてきた。
淡海は本名田辺耕治ー明治十六年琵琶湖畔江州の開田に生れ、若い頃は堅回から大津ヘ通う船の船頭をしていたが、一声が大変良く引が巧みだった。その土地では盆踊りの賂興として江州春頭が践んで、勿論彼もその唄を得意とした。こういう些細な経験から、自然と芸で身を立てることを考えたらしい。また父が九重太夫という文楽の太夫であったので、その血も引いていたのだろう。やがて一座を作り、暮雪(前記、桃李会一派の暮雪と同一人物と恩われる)・晩鐘・唐橋・晴嵐・秋月など近江八祭からとった名前を賭員につけて江州を振り出しに一皇芝居をして歩いた。一里芝居というのはたとえば琵琶湖の周辺を一日に一里ずつ歩いて公演する天幕芝居のことである。やがてこうした巡業に行詰り、夫婦で大阪天満の国光亭という寄席で万才をやり、天満の国丸と称していた。その後また一応を再組織、志賀廼家淡海と名乗り、遠く九州から北海道まで巡業を続けた。明治四十四年に京都の国華座で公演したことがあるが、このときの一座には晴嵐・松露・朝日奈などという顔が見える。晴嵐は後、作家に転向した。
色物のかったものが多かったようだが、そのうち曾我娼家に刺戟されて喜劇もやるようになった。大正九年、九州巡業中に、これもまた巡業中の五郎に遭い、その際大阪の桧舞台進出の援助を依頼、五郎が引受けて帰阪したので土産物まで用意して待っていたがさっぱり音沙汰がないのでシピレを切らし、翌十年のが、京都の夷谷座で公演中の十郎のところヘ前記の晴嵐が使者となり、彼の知り合いで当時十郎一座にいた千鳥という役者を介して十郎に会い五郎と約束の一件を訴えた。十郎は内心「五郎さんめ、また得意の調子の良いことをいったな」と思いながら早速太夫元の豊島寅吉に取次ぎ、豊島の子で松竹ヘ交渉、道頓堀の弁天座ヘ出演の運びとなった。これが淡海の大劇場進出への足がかりとなったわけで、このときの出し物は「東天紅」・「粋なお母さん」などで、芝居はまだ泥臭かった。同年十月、東京有楽座で十郎一一段が否決中に十郎が高血圧のために倒れ、ために座員の大部分を淡海一座に合同させて「志賀廼家淡海一座、曾我廼家十郎劇幹部合同一座」の看板を掲げ、夷谷座で幕を開けた。これが十一月で、十郎が休演してから一月たたないうちのことであった。淡海としては恩わぬ幸運であり、このときに人気が盛上ったのである。淡海の芸風は、初めは泥臭かったが、全体を通じてみれば、枯淡な十郎に似てまた独特の味があった。ほかの喜劇人が旧大阪俄、または旧派、新派から転向、その演出も俄風のものを基調としたのが多かったのに対して、淡海は色物・万才の経験を基に、唄を持芸にしていたという特徴を持つ。淡海としては折に触れて芝居の中ヘ得意の唄を持ち込むのを常としたが、折角芝居が盛上ってきたところを彼が唄を唄ってプチこわしてしまうという事実も多く見られ、一座の中にもかなりの不満があったらしい。
”船をひきあげ 船頭衆はかえる
あとに残るは 櫓と椴波の音
よいしょ よいしょ”
といういわゆる淡海節はオールドファンには懐しい曲だ。これはあたかも志賀廼家の劇団歌のようなものだった。
かくて「喜劇」は、歌舞伎、新派に対し堂々と一つの演劇芸術としての新しいジャンルを獲得 した。興行的にも前二者を凌ぐものがあったし、またその歌舞伎・新派などから多数の転向者があったということも向日さるべきである。そして五郎は曾我廼家創立育成の功績をもって日本における「喜劇王」の名を怒まにしたのであるが、芝居の内零そのものはマンネリズムに陥ってしまった。すなわち俄は「膏劇」にまで発展したが「喜劇」はいつまで経っても曾我廼家創立当時の「喜劇」でしかなかった。教訓性・下賂背楽・女形……。それを打破ったのが曾我廼家五九郎である。