東宝劇団の興亡

宝塚少女歌劇の本格的東京進出を目論んで昭和九年、日比谷の一角に東京宝塚が建設されたことはすでに述べた。
しかし宝塚の東京公演は年六回であり、そうするとあとの半年間は劇場を遊ばせておかなければならない。その穴を埋めるために東宝専属の新劇団を結成することになり、同年の一月一三日から俳優の募集が行われた。千三百人の応募者の中から男十九名、女九名が採用されたが大部分は舞台経験のない者ばかりだった。このときはまだ東宝劇団とはいわず、東宝専属男女優と呼ばれていた。

三月に芸術座の水谷八重子一座の初出演に合同してバラエティ「さくら音頭」を演じさせたが、何分にも短期間の養成で、しかも映画出身の伏見信子・谷幹一(現在の谷幹一とは無関係)・沢蘭子あたりを除いては全く無名の新人ばかりだったので、案の定結果は芳しくなかった。五月に宝塚の坪内士行が上京して指揮に当ることになったが、その後夏川静江と歌舞伎畑の新人が三、四人加入したもにで、依然として強力な有名役者は引抜けず、同年の九月にやった単独興行でも、阪東寿二郎と汐見洋両人の客演も空しく、またもや不入りだった。なおこのときから初めて東宝劇団なる名称を使っている。演目は

一 海老原靖兄作「縁は異なもの」(懸賞本集したもの)
二 高田保作「かぐや姫」
三 坪内士行作「山田.長政」
の三本立てであった。

翌十年の六月、阪東簑助を迎えて有楽座に

一 並木二瓶作「寿曾我三番」
二 シュニッツラー原作、山本有三翻案「盲目の兄とその妹」
三 河竹黙阿弥作・八住利雄改作「人間万引金世中」
四 白井鉄造作「シューベルトの恋」(藤原義江出演)

を上演した。

その後市川寿美蔵(現寿海)、もしほ(現勘三郎)、高麗蔵(現団十郎)、芦燕(現我輩〉といった歌舞伎畑の青年俳優が続々と入座、劇団の内科性格を一変させるに至った。同時に、文芸部も従来の坪内士行・島村竜三・園地公功・川島順平らに替って青柳信雄・金子洋文・八住利雄らが中心となった。
このころの出演者としては、ほかに中村駒之助・中村福助・小佐川鶴之丞・片岡右衛門・沢村宗之助・神田三郎・高橋豊子(現とよ)らがいて制合と多彩な顔触れだった。当時ここの大部屋に森繁久弥がいた。
東宝劇団としては、従来の歌舞伎や新劇に代る国民のための新しい現代劇の創造ということを表看板にしていたが、しかしちょうど同じころに東支ヘ引抜かれた緑波やエノケンらに喰われて劇団は段々液ち目となり、十三年には夏川・舟海、十四年にはもしほ・袋助らも相次いで退座、その問宝塚から雲野かよ子などが入ったが力及ばず、、遂に消滅してしまった。
しかしそれから四年後の十八年五月、第二次東宝劇団が結成された。采配を振っていたのは渋沢秀雄(後に滝村和男が代る)で、その下に菊田一夫がいた。

若手の歌舞伎役者を主力としていた第一次組に対して第二次組の方は問謙二・小夜稲子を中心に、永田靖・伊達信・高橋豊子といった新劇人で固め、従って専ら典型的な現代劇の発表をその目的としていた。
旗揚げ公演は同年六月の帝劇で、北条秀司作・佐々木孝丸演出の「ピハリ・ボース」、菊田一夫作・演出の「紅の翼」なる現代劇だった。以後三回公演までが帝劇で、四回目の公演は有楽座だった。これが十九年の二月で、出し物は金子洋文作「岡倉天心」、それに丹羽文雄原作・菊田一夫脚色「今日菊」の二本だった。水戸光子・日守新一らも参加して前評判は良く、切符の売れ行きも上々だった。しかしその舞台稽古の最中、決戦非常措置令による劇場閉鎖の命令が出て、この第四回目公演は陽の目を見ないままにあえなく潰れ、そのメンバーはやがて移動公演専門の劇団と化した。

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