軽演劇とは何か?
「軽演劇」をただ読んで字のごとく軽い演劇――すなわち上演時聞が短かく、舞台装置も簡便で、全体の演出効果も重厚さを避けた格快な感じのもの――と訳せば、その範疇は極めて広いものとなる。そしてそのような形式のものはわが国にも従来からあった筈である。しかし専門書時点の類をひもといてみるとそのいずれもが多少の差はあれカジノから笑の王国、ムーランルージュ、およびその流れを汲むレピュー式喜劇の類を指して「軽演劇」といっている。少なくとも日本伝来のものではない。歌舞伎や能狂言などは、それが一幕物であっても軽演劇とはいわないのだ。カジノは前にも述べたごとく曾我廼家喜劇における俄のごとき伝統を持たない。主な素材としてはレビュー、ジャス、ボードピル、それに当時流行ったマック・セネット映画におけるギャグであった。マック・セネットはアメリカ最初の短篇喜劇のスタイルを創造した功績者である。彼は最初グリフィス監督の下で役者として働いていたが、一九一二年にキイストン社を設立、ここがいわゆるキイストン喜劇発祥の地となった。
彼のスラップスティックコメディはポードピルなどのギャグを映画に生かし、これにコマ落しやコマ止めを初めとする色々なカメラのメカニズムによるトリックを用いて現実には作り得ないような出鱈目なギャグを発明した。人物の動作もすべてナンセンスでスピーディーであり、バナナの皮を踏んで滑ったり、街中の人たちが互いにパイを顔にぶつけ合ったり、自動車が猛烈なスピードで建物をぶち破って走っても乗っている人は平気だったり――といったようなギャグを考案して一九一三年から一六年頃にかけて黄金時代を築き上げた。また海水着美人を多数登場させたことでも有名である。セネット喜劇からはマック・スウイン、チェスター・コンクリン、ベン・タービンなど幾多の喜劇俳優が輩出した。チャップリンやハリイ・ランドンもまたキイストンの門下である。
このスラップスティックという言葉は通常ドタパタあるいはアチ
ャラカというように解釈されているが、これが軽演劇における最も重要な骨子となっている。ところでこのアチャラカは古川緑波の言によれば、最初は西欧流、すなわちモダン・ハイカラを意味する「アチラ」という言葉だったのがいつの間にか転化したものであるという。「アチラ」が「アチャラ」となり、西洋風がアチャラ風、あるいはアチャラ帰りなどといった要領で、バタ臭い喜歌劇などによく「アチャラカそう」などといい出したのが始まりで、その後次第にドタパタのギャグを意味する言葉に変っていったらしい。この「アチャラカ」なる肴紋を最初に掲げたのは後記「笑の王国」である。
ここで「軽」という字について少々考えてみよう。われわれの日常生活周辺に「軽」のつくものは多い。現代文化は終文化だといわれるゆえんである。その主なるものに軽音楽がある。軽食喫茶などという看板もよく見かける。軽工業(製品重量一トン以下のもの)、軽機関銃(重量十キロ程度のもの)もそうだ。軽文学というのもあったが、これはいつの間にか中間小説という言葉に変った。また最近はビール、サイダー、ジュースなどを意味する軽飲料という言葉も出来た。かく「軽」の字のつく物を並べてみると、われわれはまず一連のことに気が付く。すなわちそれはすべて西欧的なものであって(軽文学にはときどきマゲ物があるが)、少なくとも日本的もしくは東洋的なものではない。凶欧的であるということは、わが国においては殊に近代的であることを意味する。社会生活の近代化とは、一般的にいえば封建社会から資本主義社会への移行ということだが、わが国においてはそれが社会生活の凶欧化という面においてとらえられる。
序でながら軽音楽というのは大東亜戦争中に出来た言葉である。当時ジャズは敵性音業であるという理由で当局から徹氏的に弾圧され、従ってジャズという言葉は禁句となっていた。そこでジャズの代りに軽音楽という名称を考え出した者がいた。その後この軽音楽が拡張解釈されて、ジャズのみでなくポピムラー・ミュージック一般の類を指していうようになったことは周知の事実である。(戦後”ジャズ”という言葉が復活した頃は、筆者の記憶によれば、軽音楽とは主として桜井潔や吉野章らの楽団が演奏するコンチネンタル系のタンゴやルンバなどを指し、ジャズやハワイアン、純ポルテニヤ系の曲目とは一線を画していたように思う)この軽音楽もさらに広義にとれば、オペラの序曲や間奏曲、J・シュトラウスやワルトトイヘルの円舞曲、また器楽のソロによる、いわゆる小曲などもこの範疇に入るだろう。ただいえるのは、日本の俗曲や民謡、琴や三味線によるいわゆる「邦楽」は絶対に軽音楽とは呼ばれないことである。「軽食」という場合にも、それは通常カレーライスやチキンライスやサンドイッチを意味し、天井や鰻井やあるいはうどん、ソパなどを指さない。軽飲料もまた同様である。これは私見だが、日本人は本来西洋人に比較して何事にも軽・重の観念がハッキリしていないように思う。例えばスポーツでも、ボクシングやレスリングやウエイトリフティングではフライ、ハンタム、フェザー……といった具合に、体重による階級がやかましいが、相撲などでは遥かに体重の異なった者同志を闘わせて一向に憚らない。
軽演劇という用語が公けに使われたのは昭和七年の都新聞(現東京新聞)演芸欄で、現在同社のい編成局長土方正己氏がエノケン一座の芝居評について用いたものだ。当時は満州事変を初め、日本としては徐々に軍需体制に入りつつあったときで「重工業」という活字が盛んに使われたが、これに対する「軽工業」から思い付いたものだという。以前からあった曾我廼家喜劇・剣劇・女剣劇は含まず、専らアチャラカ喜劇、変格パロディの類を指したものであった。先にも述べたごとくカジノはレビュー、ボードピル、ジャズそれにマックセネット映画のドタパタ手法を用いて全く新しい形の演劇を生んだ。そしてこれが後のムーラン・ルージュ、笑の王国などを経てさらに今日のミュージカルとよばれるものに連なっているのであるが、この一連のものを軽演劇とよぶことが最も妥当であると考える。
しかし、軽演劇なる言葉の由来については他に説がある。昭和三、四年ごろにサトウ・ロヴノローが浅草の江川大感館に出演したときすでに軽演劇なる看板を掲げていたというものである。ま
た戦時中、NHKでやっていたラジオ香組の中で軽演劇というのがあって、十分から十五分程度のごく短いコントを放送していたが、これはラジオ・コメディから由来したもので、後に短編劇という名称に変ったという。これは舞台における軽演劇がラジオに流れ込んだものと思われるし、また前記ロクローの軽演劇にしてもその内容はかなりモダンなアチャラカ喜劇であったそうだから、いずれにしても軽演劇本来の意味を損うものではない。英語のライト・オペラ、ライト・コメディから由来したものだという説もあるが、詳しいことは判らない。
いささか回りくどいいい方で申訳けないが以上で大体「軽演劇」というものの概念を述べたつもりである。つまり軽演劇とは上演時間の短かさや規僕の小ささを表わすものではなく、あくまでもその手法をいうものである。これは音楽においても、演奏時間の長短や演奏者の多少によって「純」とか「軽」とかの区別がつけられないのと全く同じである。
戦後出現したストリップ・ショウはあくまでもヌードの踊りのみに重点を置いて考えればそれは演劇とはいい難い。しかし一定のテーマを持たせて筋を組み、科白などを入れて全体をドラマティックに仕立てることによりその多くは軽演劇の範疇に入ってくる。それは踊り以外の、すなわち之居の部分が軽演劇の手法によるものだからである。
ところで軽演劇なるものが様々の伏線を持ちながら極く最近になって生れて米たということは重大な意味を持っている。ひとり軽演劇のみならず一体に大衆演劇とよばれているものの胎動は、大衆の社会における地位の向上、いうなれば大衆社会の発展と密接に結び付いているのであるが、「一般大衆の気質はまず流行歌に現われ、軽演劇に現われる。」という言葉を待つまでもなく、軽演劇は殊にそのときの社会情勢を最もよく反映しつつ大衆とともに育成されてきたのである。