益田太郎冠者と帝劇喜劇

「今日は帝劇、明日は三越……」のたとえ文句にもあるごとく、今でこそ「大衆」が出入りしている帝国劇場やデパートも、昔は上流階級の独点場だった。その帝劇は明治十四年、三月四日に開場したが、そこで上演された益田太郎冠者の音楽喜劇は、新味あるものとして異彩を放った。ブルジョア階級を相手に出したものをこの本で紹介するのは少々妙な感がしないでもないが、後の浅草オペラや昭和の軽演劇、あるいはミュージカル等にその手法は少なからず承継されていると考えるので、あえて触れることにした。

太郎冠者は本名太郎、明治八年男爵益田考の長男として生まれ、慶応義塾卒業後実業界に入り、大正九年現在、 台湾製糖・南国産業の業務を始め、台湾肥料・千代田火災、大日本人造肥料、万年生命の各取締役、日本煉瓦・氷妻硫黃、小田原紡績の各監査役を兼ね務めていた。勿論帝国の重液でもあった。そのかたわら多くの作品を書いていたということは、やはり稀にみる才人とい
わねばならない。大正九年までに帝劇で上演された彼の喜劇は次の通りである。

明示四十四年五月「ふた商」九月「心機一転」
四十五年五月「渡辺」六月「出来ない相談」七月「三太郎」
大正二年五月「生器襲来」十一月「女天下」
三年一月「かねに恨」七月「瓜二つ」十月「叫旅行」
四年五月「女優風情」イ一月「執心の鬼」
五年七月「三つの心」
六年五月「ドッチャダンネ」
七年五月「附の世の中」
八年一月「難病デレテリア」
九年二月「ガラカテ」

これらのファースでは、当時には珍らしい西洋的なハイカラなギャグや洋楽による劇中歌が使われており、優れた社会調刺も少なからず盛られている。これらの新作喜劇を演じたのは帝劇専属俳優の六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、七代目沢村宗十郎・初代沢村宗之助、四代目尾上松助(以上幹部〉、六代田沢村長十郎・八代目納子・森律子・村田嘉久子・初瀬浪子・河村菊枝らであった。森を初めとする専属女優たちは一つの名物となり、いわゆる「女優劇」は帝劇の重要な興行品目の一つであった。

明治問十内年六月号の演芸画報に鳥居清忠が批評を書いている。

「ふた面。作意が益問さん式で擦りの多いのには閉口、髪の抜けるのや軍人の未亡人の抜刀騒ぎはあらずもがなと思ひました。(略)これは当人の罪でなく、作意の放でせう。」
このような批判は終始彼の作品に付きまとっていたらしく、「帝劇十年史」にも次のことき弁解じみた記事が見える。

「或は氏を眨して曰く「畢竟落語めきたる茶番狂言の作品のみ」と。由来他人の長を認むるに吝かなるは邦人の通弊也。借問す、現代日本に氏以上の喜劇作者ありやと。而して近来氏が悲劇物に指を染めたるは人の知る所の如し。沙翁の言ヘるが如し、”完全なる悲劇作家は先づ喜劇に立脚せよるべからず”とせば、益田氏の今後の作品は大いに刑目すべし。」

彼はまた新作落語の作者としても知られているが、この落語趣味が彼の作品を貫いていたことはいうまでもない。しかし同時に、その特色あるモダニズムも見逃してはならないと思う。
彼の作品は、明治・大正・昭和の三代にわたって主として帝劇で上演されているが(帝劇以外では麻布南座など)、喜劇ばかりでなくメロドラマ・悲劇・探偵劇・古典劇・社会劇などと銘打った作品も多い。また「高速度喜劇」と称する寸劇も書いている。そしてこの場合は特にセレリタスというペンネームを用いている。

大正十五には「芝居と実地」(高助・宏之助・浪子)、「大正の幽霊」(田之助・律子)、「列車の怪」(高助・宗十郎・勝代)等の高速度喜劇を上演したが、これに先立ち、高速度喜劇にふさわしく、律子を使って早口の口上〈六六五文字を五十秒以内に読む)を云わせているのも面白い。
一例として、昭和二年に上演した短篇喜劇「支那限鋭」〈寿美蔵・浪子・律子〉の梗概を紹介しておこう。
場所はロンドンの一家庭。人物は金持の夫婦と一人の女中で、この家に、掛ければ相手のかくしごとがたちどころに透視出来るというシナ渡米の魔法の眼鏡が登場する。折しも女中がこの眼鏡によって夫婦のそれぞれから、つまみ喰いや男と逢引きしたことなどを見付けられてグビを宣告されるが、逆に女中がこの眼鏡をかけると夫婦のそれぞれが浮気をしていることがわかる。そこで女中は二人から口問め料を貰い、クピもつながってメデタシメデタシとなる。――

「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という「コロッケの歌」は大正三年講演の「啞の旅行」の主題歌だが、これが後の浅草オペラヘ流れていったのを初めとして、モダンなギャグの数々が昭和におけるアチャラカ軽演劇の大きな要素となっている。現画壇の重鎮益田義信氏が彼の御曹子であることは知る人も多いだろう。
退座していったので次第に衰退、その中にあって僅かに谷崎歳子(江利チエミの母親)が孤軍奮闘していた。

田谷力三の当時の人気といえばそれは物凄いばかりで、東京中の女宇生が彼のブロマイドを教科書に挟んでいたといわれるくらいである。田谷は戦後の今日でもときどきラジオやテレビなどに出演したり、浅草あたりのキャバレーで唄ったりしているが、いまなおカクシャクとした美声で人々を驚かせている。

このほか田谷に限らずオペラのスターにはそれぞれ熱狂的なファンがいて、ひいきの役者が出てくると客席からの掛戸と拍手で館内は割れんばかりだった。こういう熱心なファンをぺラゴロと称したが、これはオペラのごろつきという意味ではなく、オペラのペラとフランス語のジゴロ‐gigoloを合わせたものだ。もっともジゴロという言葉も「売春婦のヒモ」という意味であるから、決していい呼び名ではないのである。が、それはともかくとして、この一世を風靡した浅草オペラも、やがて大正九年の株式大暴落による不況、統いて十二年の関東大震災による影響などで急激に凋落していった。

これらのオペラは結局、唄や踊りなどを通じて洋楽や西欧劇を消化するに極めて大きな役割を果した。この浅草オペラの経験をもった人々がやがて昭和における新感覚のレビュー式喜劇を開拓していったのは当然の理である。

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